聖書は人の命の尊さを教えると同時に、その命のはかなさをも教えています。
「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところ
は労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
生涯の日を正しく数えるように教えて下さい」
(詩編90:10.12)。
旧統一教会は信徒から多額の献金を募っていたということが、徐々に明らかになり、社会的にも大きな問題となりました。宗教に対する厳しい批判の目が、解散云々というところまで高まっております。
旧統一教会の信徒たちはマインドコントロールによって、献金最優先の生活を強いられ、大切な多くのものを犠牲にし、家族崩壊を招きながらも、何千万という、考えられない献金をささげていたといいます。彼らは私利私欲のために貧しい者からお金を吸い上げていたのです。
お金は、生きるためには確かに大切で、重要なものであります。私たちは生活に必要なお金が与えられますようにと祈りをささげています。聖書には愚かな金持ちの話が記されています。男は「大きな倉を建て、何年もの蓄えをし、食べたり、飲んだりして楽しもう」と思ったのです。
誰もが、考えることかもしれません。しかし、神は言われたのです「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる」(ルカ12:20)「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」神の目は厳しいのです。本質をズバリ突いています。
同じ命を与えられていながら、しかし、神の前に貧しい者がいて、神の前に豊かな者がいるというのです。人間の前にではないのです。神の前になのです。私利私欲のため、己の腹を満たすために精を出す者。神の愛と恵みに感謝しつつ、自分の事はさておき、他者のために、労を惜しまない者。双方ともに、同じ尊い命が与えられているのです。
そして双方共に「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」そのように限りある命を持つ人間なのです。ですから「生涯の日、与えられている限りある日数を正しく数え、日々過ごすことができますように」と、この聖書個所、詩編の詩人は神に祈っているのです。
わたしもまた、限りある命を持ち、多くの年月を重ねてきた平凡な一人の人間であります。神の愛と憐れみの前にへりくだり、悔い改め、「主よ、生涯の日を正しく数えるように教えて下さい」と祈りつつ、歩んで行く事を願っています。
10月、深まり行く秋の気配を、そこかしこに感じつつ、忙しさの中にも、立ち止まり、神の前に静まる一時が与えられますようにと祈ります。