聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2024年 3月

聖書の言葉                      牧師 小林美恵子

 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 私の助けはどこから来るのか。

私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。」 (詩編121:1-2)

 

年長さんは卒業の時が迫ってきました。いよいよ小学校入学です。「おめでとうございます」。幼稚園を卒業し、学校の門をくぐりますと、長い学びの時がいよいよスタートいたします。子どもたちの目の前には広大な未知の世界が広がっています。子どもたちの素晴らしい可能性、秘められている能力の花開くときでもあります。

慣れるまでには多くの時間を必要とする子どももおられることでしょう。すぐに溶け込む子どももいるのです。個人差がまた、大きく、大きく広がる時でもあります。それと同時に、それぞれの個性が日ごとに輝きを増して行く素晴らしい時でもあるのです。大丈夫です、個人差があります。早熟の花あり、大器晩成の花もあります。一喜一憂は禁物です。

 

送り出す園の園長、先生方、関わりを持たせていただいたすべての大人たちは、子どもたちの前途に幸多かれと、熱き祈りを捧げているのです。彼らの前途を思う時に、楽しいことや嬉しいことばかりではない、辛いときもあるであろうと言うことを、口には出しませんが、皆知っており、案じてもいるのです。

多分、苦労もあるでしょう。悩んだり、迷ったり、泣いたり、笑ったり、悔しがったり、喧嘩したり、病気したり、けがをしたり、いろいろな経験が子どもたちを襲うことでしょう。

そのような時に、どうしようもないときに、詮方尽きたときに、視線を上に向け、上を見上げて欲しいと思います。

「目を上げて」ください。 「天を見つめてください」。わたしたちには助け手がある事を思い出してください。神さまの愛の御手がいつも大きくわたしたちに向かって広げられていることを思ってください。目を上げて山々を仰いでみてください。神の愛が連なる山並みのように、わたしたちをとり囲んでいるのです。そしてさんさんと降り注がれている主の恵みを信じたいと思うのです。

 やるせない思い、言葉にできない、言葉にならないあなたの嗚咽をじっと聞いていて下さる御方がおられるのです。そのことを忘れないで下さい。

 

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 私の助けはどこから来るのか。

私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。

 

 多くの方々の祈りにわたしたちは囲まれており、守られているのです。そして必要な助けは必ず「来る」のです。「主のもとから」!! 

神がわたしたちの味方なのですから、神がわたしたちの助け手なのですから、岩であり、砦でありますから、恐れずに、まっすぐに、「目を上げて」歩んで参りましょう。 

神の祝福が、あなたの上に、豊にありますことを祈ります。

2024年 2月

マタイによる福音書 6・25-34:
(イエスは言われた)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 

 

   「思い悩みからの解放」    牧師 小林美恵子

 思い悩む日を過ごすことが多い昨今であります。あのことも、このことも、衣食住の悩みも尽きません。災害問題、経済問題、いじめ、差別、平和、戦争、ご近所付き合い、子供たちのこと、愛する家族のこと、家庭内のこと、等等。

悶々とした日々を過ごしているとき、一歩外に出てみますと、暖かく優しい日差しが、あのどんよりと、重く垂れ込めている雲の隙間から差し込み、もう、春が来ているのだ、と思わせてくれています。

春の花の色は黄色から始まると言われています。確かに、菜の花、ロウバイ、然り、ミモザ、レンギョ等も春を告げる花々として、わたしたちの心を明るく、喜々とさせてくれるのです。その中でひときわわたしの心を引いてやまないのは、野に咲く、道ばたに咲く草花なのです。星をちりばめたような、オオイヌノフグリ、愛らしいホトケノザ、そして凛とし、楚々とし、軽やかに風になびいているぺんぺん草。どれもこれもお気に入りの草花です。柔らかい日の光に、どのような道ばたにも、幸せそうに咲き誇る彼らの美しさ愛らしさ、そして命の逞しさに、どれほど励まされ、力をいただいてきたことか!!

 誰からも気に掛けられることなく、世話をされるという事もなく、踏まれ、風雨に耐え、降り積もる雪をもはね除け、自分の命の精一杯を生きているのです。神さまは、そのけなげで、小さい命をお守りなさり、傲慢な人間の心をへりくだらせるのです。

 小さな存在に御目を留められるのは、神さまの習性なのかもしれません。ドレーパー記念幼稚園のお友達も、小さな存在です。昨年の4月にはじめて幼稚園に入園し、園の生活が始まったお友達の愛らしさを思い出しています。落ち着きのない子どももおりましたが、今では、礼拝でのお話しに耳を傾け、大きなお口を開けて讃美歌を歌い、目を閉じ、口を閉じ、手を合わせ、お祈りをしています。小さなポケットから献金を出してお捧げし、最後まで、小さな椅子にしっかりと座っています。祈りの最後の「アーメン」にも唱和してくれています。小さな存在は、神の守りと多くの愛に包まれ、囲まれて、確実に頼もしく成長しているのです。大人の「思い悩み」を、良い意味で裏切り、はね除け、彼らは、彼女らは成長しているのです。

小さい者に目を注がれる神は、空の鳥、野の花の命を守られます。さらに、何を飲み、何を着ようと、「思い悩むな」と、わたしたちを励ましておられます。「思いを深める」ことは良いことであると思います。しかし「思い悩む」時、何も良いことは出ては来ないのです。あれこれと悩み、ああでもない、こうでもないと、考え、そして迷い、苦しみ、七転八倒するのであります。

 鳥を養い、野の花を装い育てられる神は、花壇の中で咲き誇る豪華絢爛たる花ではなく、誰も気にも掛けない、道ばたに咲く小さな草花に目を留められる御方であります。「最も小さい者の一人に」目を注がれるのです。光輝く春は、旅立つ季節でもあります。誰もが、新たな出発をする時なのです。野に咲く花以上に祝福と恵みを、わたしたちの上に注がれる神が、見守っておられます。卒業を控えているお友達が、ご家族が、すべての人が、だれ一人として、「思い悩み」から解き放たれて、重荷のすべてを神さまにお任せして、お預けして、軽やかな心と足取りで、春の日差しの中を歩んで行く事ができますように。

2024年 1月

 何年か前の晩秋、山梨方面をドライブしていた時のことです。黄金色に輝くカラマツの群生に出会ったことがありました。その輝きはあまりにも眩しく、圧倒されるほどの「輝き」で、迫って来たのです。心奪われる光景でありました。その後それ以上の「輝く黄金色」にであったことはありません。

 聖書には神の栄光に輝く描写が出て参ります。その輝きは、私が目にしたカラマツの輝きを遙かに超えた、想像することができないほどの、輝きであったことだろうと思うのです。

 寒い、寒い、冬の夜、震えながら羊飼いたちは、夜通し羊の番をしていたのです。突然その声は聞こえてきました。「主の栄光が周りを照らした」のです。目に痛いほどの眩しさが迫ってきたのです。

栄光に輝く天使たちの言葉と歌声は極寒の夜空に響き渡りました。その時、だれが理解することができたでありましょうか。それは人類に対する神の驚くべき、絶大な愛が実現したことの知らせであったのだということを!!

 キリスト・イエスの誕生は、人間の理性を遙かに超えている出来事でありました。理解できない事なのです。何千も前の預言の成就が実現したと言うことなど、だれ一人として想像できなかったでありましょう。しかし、想像できないことなど、日常茶飯事にひっきりなしに、起きているように思います。何か事件が起きるたびに、そのことは、大体において、私たちの理解を、想像を遙かに、いつでも超えているのです。新たな科学の発見も、医学の進歩も、学問の世界も、芸術も、私たちの理解や、思いを、遙かに超えていることどもが起こっています。そして将来も起こりうるのです。神の愛がこの世に現れたなどと言うクリスマスの出来事は、人間の思い、想像、理性、あらゆるものを遙かに超えている出来事であったのです。それが起こったのです。

12/3から12/24迄、教会はアドベント待降節・主の来たりたもう時を待ち望む時)に入りました。やがて、愛を語り、愛を教え、己を全くむなしくして他者のために生きたキリスト・イエスのご降誕を迎えることになるのです。

民全体に与えられる大きな喜びの日」「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 

この聖書からのメッセージを、主の栄光がまばゆいほどに黄金色に輝き、照らし出している天からのその言葉に耳を傾け、聞き分け、しっかりと受け止めたいと思います。

この時期教会は、闘いの世を憂いつつ、「キリストの平和、地には平和、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りつつ、「主の平安がすべての方々の上に注がれますように」と願っているのです。 

 

www.youtube.com

2023年12月24日 聖夜礼拝 説教 

2023年12月24日(日)
聖夜礼拝説教

小林美恵子
説教題

「ギフト」
聖書箇所

ヨハネ1:14「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」

ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

 

Ⅰ 初めに

ヨハネⅠ:14には「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」という神秘的な謎めいた言葉が記されています。クリスマスの出来事は、何千年も前の出来事です。何千年も前に起こった出来事、それも世界の小さな場所で、その場所の片隅の小さな、小さな家畜小屋の中で起こった出来事なのです。
その出来事、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」というのです。神の独り子、恵みと真理とに満ち満ちていた御方の誕生、歴史的に起こったとはいえ、何千年も前に起こった事を、世界中でいまだに祝っているのです。毎年、毎年、長い年月お祝いしてきたのです。
その家畜小屋には、マリヤと、夫ヨセフ、そして生まれたばかりの幼子が布に包まれ、飼い葉桶の中に寝かされていたのです。およそ人間の子どもが生まれるにはふさわしくない場所に、キリスト・イエスはお生まれになったのです。その知らせを受けて、その場にお祝いに駆けつけたのは、貧しく、人間扱いされていなかった羊を飼う人々だったのです。
彼らは夜も寝ずに働かなければならなかった貧しい人たちだったのです。だれからも認められず、辛い仕事を黙々とこなさなければ、食べてはいけない人。世間の片隅に追いやられ、それでも、めげずに生きていかなければならなかったのです。
その家畜小屋には光が差していたのでしょうか、その場所は明るかったのでしょうか。幼子誕生を喜ぶ顔はあったのでしょうか。多分、彼らは心から喜んでいたのです。少なくとも、両親は、一つの命の誕生を喜んでいたのです。
天使の言葉を聞いて半信半疑で駆けつけてきた羊飼いも、天使のいったとおりのことが現実に起こったのだと言うことに、感激したことでしょう。そして見、聞きしたことを、人々に語ったのです。

 

預言されていた出来事
その出来事は旧約聖書にも預言として記されていた出来事でありました。「見よ、乙女が身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」、(イザヤ7:14)「エフラタのベツレヘムよ、ユダ氏族の中で、いと小さきもの、お前の中から私のために、イスラエルを治める者が出る」(ミカ5:1)

毎年、繰り返し、繰り返し語られている、イエス・キリストの誕生物語であります。言葉は肉となって、私たちの間に宿られたその私たちの間に宿られたエスは、「私たちの病を担い、痛みを背負った御方でありました。」 私たちが神に背いたその背きの故に苦しみ、心も肉体も、刺し貫かれたのだと、聖書は語っているのです。
今、私たちが平和な思いで、暮らしているのだとすれば、それは彼が受けた懲らしめによってであり、私たちの傷がもし癒えているとするならば、彼の受けた傷によってなのですと、聖書は言うのです。彼の受けた傷が、刺し貫かれた槍の傷によって、私たちは癒やされたのですと、イザヤ書は語っているのです。
家畜小屋で生を受けたイエスの生涯は決して平坦で、穏やかな生涯ではなかったのだと思います。キリストは、権威や権力を徹底的にお嫌いになりました。差別を許さず、貧しい者、弱い者、苦しんでいる方々へ手を延べ、人々を愛し、身を粉にして他者のために生きた人物であったのです。
神の愛をこの世に示すために、十字架の上にその命を差し出し、驚くべき神の愛を示されたのです。実に、あの家畜小屋の誕生こそ、この十字架へ向かうプロローグであったのであります。
聖書はイエスの誕生について次のような力強い言葉を私たちに提示しています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も
滅びないで、永遠の命を得るためである」と。Ⅲ ある一人の少女のお話
この言葉に出会い神の愛を知った人々は数えきることができないほど多くいらっしゃいます。一人の少女もそうでありました。その少女は、幼いときから、死に対する恐怖を持っていたのです。また、内面の問題も抱えていたと言います。
我が強く、周りの人たちとうまくやっていくことができないという疎外感を心の底に抱えていたのです。そしてそんな自分が許せず、とても嫌いであったのです。
でも、だれにも相談することもできず、悶々としていたといいます。
中学になったとき、お友達に誘われて、教会に行くようになります。そこは笑顔に溢れ、愛に溢れた方々がおられた、暖かい場所だったのです。あるとき牧師が神の愛を語ってくれました
「神は、イエス様をあなたのために下さったほどに、あなたを愛されているのですよ」シンプルなメッセージが伝えられたのです。自分が愛されている存在であると言うことに、大きな驚きと、ショックを受けたのです。こんな私が愛されているなんて、それも、命を賭けて愛を成就して下さったイエスさまがおられたのだ。その時、少女はイエスの十字架の愛を受け入れ、神に許しを求めました。その時彼女の心の中にもあの家畜小屋で誕生したイエス・キリストが、誕生したのです。
それは神が貴いギフトとして与えて下さったキリスト・イエスを、彼女が受け取り、受け入れた日であったのです。その時から何十年という歳月が流れました。人生という荒波にもまれながらも、どのようなときにも神の愛が、生きる力となり、今も、彼女を支え続けているといいます。

ミトコンドリア病と闘う愛ちゃんの話をご存じでしょうか。ミトコンドリアとは車のエンジンのようなものだそうです。愛ちゃんの体は、エネルギーを生み出すことができない体であり、そのような病気なのです。筋肉、心臓、脳に障害が出る病気だと言います。
今の医学では治療法、薬が見つかっていない細胞の難病なのです。

小さな冊子を読みました。お母様のちひろさんのつぶやきのような、珠玉の言葉が書き綴られています。たとえあなたが立てなくても、私たちは愛し続けます。たとえあなたが歩けなくても、私たちは愛し続けます。たとえあなたが話せなくても、私たちは愛し続けます。たとえあなたが何もできなくても、わたしたちは命ある限り愛し続けます。

だってあなたは愛されるために生まれたのだから・・・・・」
 立てなくとも、歩けなくても、話せなくても、良いのです。

たとえ、何もできなくても、そのままのわたしたちの姿を神は、愛されるのです。

「君は愛されるために生まれた 今もその愛受けている 君は愛されるために生まれた 今もその愛受けている」ちひろさん自信が受けた神の愛、そのものが語られているのです。

神は独り子を与えて下さったほどに世を愛されました。一人一人を愛しておられるのです。欠点だらけの人がいますか?自己を肯定することができないで苦しんでいる人がおられますか、ズタズタに傷ついておられる方がおられますか。悲しみで打ちのめされ、耐えられず、自暴自棄になっている人がおられますか。
もう、人生おしまいかもしれないと、先行きに、不安を抱えておられる方もいるかもしれません。でもあなたは、神の愛を受けるために「神に愛されるために、今というこの時を、生きておられるのです」

キリスト降誕から2000年以上が経っています。しかし、ベツレヘムに、何千回、何万回とキリストが、この世に誕生したといたしましても、私たちの心の中にこの、神の愛を受け入れ、心の中に、キリストを受け入れようとしないのであれば、神の愛は、無駄となるのです。むなしく、私たちの前から、消えて行く事になるのです。
神は、イエス・キリストを、ギフトとして、私たちに与えられたのです。それは天から贈られた価値ある贈り物です。どれほどの愛を持ってお一人お一人を愛しておられるのか。聖書は語っているのです。
そして私たちは、神から「ギフト」としての「この愛を」受けているのです。私たちの生は神に愛されるための生であります。愛されるために私たちは生まれてきたのです。その神の愛の表れとしてのキリスト・イエスの誕生であります。

 

Ⅳ 終わりに
だれでもが年を取り、衰え、やがてはその命の終わりを迎えるのです。その間、それぞれ
が与えられている命を抱えながら、与えられている人生の馳場を走り抜けて、やがて、天の
御国へと帰る時がやってくるのです。
聖書は「独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るため」、そのために、
クリスマスがある事をも伝えているのです。神はこの聖なる星降る天の彼方から、限りある
人間に、ラブコールを送り続けているのです。ギフトとしてのキリスト・イエスを、お一人、
お一人の目の前に、提示していて下さるのです。お祈り致します:愛する神さま、私たちをどれほどの愛と恵みを持って、見守り、導き、祝福していて下さるのでしょうか。感謝致します。世界は争いに満ち、差別と分断とが日常を支配しています。人類には、今こそ神の愛が、平和が必要であります。キリストの平和に満ちた世界、愛と赦しに満ちた世界が、速やかに実現することを祈るものであります。
愛されるために私たちは生まれてきたことを感謝致します。この神のご愛を心に満たし、憎しみを断ち切り、隣人を愛するものへと、この聖なる夜に私たちをお変え下さいますように、心よりお祈り致します。キリストの平和を心に抱かせて下さい。
悲しめる方々、痛みを持つ方、多くの傷を受け、未だ癒やされることのない方々の上に、神のなぐさめ、励まし、いやしをお与え下さい。イエスがお生まれになられたこの聖なる清き夜に感謝致します。イエス様のお名前によりこの祈り、御前におささげ致します。

アーメン

終業式に寄せて   小林美恵子

2023年12月22日(金)

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16~18(379頁)

 

Ⅰ はじめに

 今日は、終業式ですね。みんなの顔を見ることができずに寂しいです。

今頃は、さがみ野ホームの人たちと共に、礼拝をささげている事でしょう。

先日はページェンを見せていただき、とても楽しく、うれしい時を過ごさせていただきました。みんなとっても素敵でした。

 イエス様が天使の言った通りに、家畜小屋の飼い葉桶の中で生まれたこと、不思議でしたね! 宿屋には、マリヤさんや、ヨセフさん、そして赤ちゃんのイエス様が泊まる場所がなかったのでしたね。イエス様は、「大きな喜びとして」「メシア、救い主」としてすべての人々に神さまから、与えられたのです。

 『地には平和』と祈り、願った天使さんの歌声を覚えていますか。でも、今、世界は、争いに満ちています。国同士が喧嘩をしているのです。銃弾が飛び交い、多くの大切な、神さまの愛する人々の命が、失われています。

 クリスマスの出来事は、平和を強く願っている出来事なのです。すべての人々の喜びと幸せ、そして何よりも平和を願う神さまからの大きなメッセージが含まれている出来事だったのです。

 

Ⅱ 神さまの願い(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16~18)

 今日、読んでいただいた聖書の箇所は、クリスマスに、イエス様を私たちにお与え下さった神さまが、今度は、私たちへお願をしている箇所なのです。神さまの皆さんへのお願い事なのです。神さまがみんなに、望んでおられることなのです。

 

1,いつも喜んでいなさい、2,絶えず祈りなさい、3,どんなことにも感謝しなさい。この3つです。 これが、「神があなたがたに望んでおられることです」と書いてあるのです。

 

 今日は終業式です。そして2023年という年が、やがて終わりを告げる時が、間近に迫っている時なのです。

さあ、皆さんはどんな1年を送ってきたのでしょか。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝してきた1年だったでしょうか。

 私もこの神さまのお願いについて考えてみました。

実行できているのかなと、考えてみましたが、「絶えず祈りなさい」これはだけは「合格!!」でした。いつも、どんなときでも祈ってきました。ですから合格です。

でも、いつも喜びなさい。は、「ブブー!!」これは不合格です。結構、ブツブツ文句を言っていました。喜ぶことが出来ない事が、山のようにあった1年だったなと思います。

 では、どんなことにも感謝していたか「ブブー!!」これも不合格です。感謝できなかったことが多くありました。

みんなはどうでしたか?でも、どうして神さまは、簡単にできないことを、私たちにお願いしているのでしょうか。

 できない私たちですが、神さまは、私たちが、いつも喜び、絶えず祈り、どんな事にも感謝することを願っているのです。何時の日か、できるようになるかもしれませんね。

 

Ⅲ おわりに

 まず、今日は、幼稚園のⅡ学期が終わったことを喜びましょう。Ⅰ年間、お友達と仲良く楽しく過ごすことができたことを感謝し、喜びたいと思います。元気に過ごすことができたことを、神さまに感謝致しましょう。

キリストにある平和が世界に実現するように、世界中のお友達が、平和に穏やかに安心して暮らすことができますように、お祈り致しましょう。そして、お父さんお母さん兄弟、おじいちゃんおばあちゃん、園長先生や、幼稚園の先生方がいつも見守っていて下さる事を、感謝致しましょう。

 

 新しい年は、喜び、祈り、感謝を忘れずに、元気に過ごしていって欲しいと、願っています。

 

お祈り致します:

愛する神さま、クリスマスの喜びを感謝致します。終業式も感謝致します。みんなと元気に、仲良く過ごしてこられましたことを心から感謝致します。

地には平和を祈ります。地球上のすべての人たちに食べ物を与えて下さい。安心して眠る場所をお与え下さい。自分の幸せだけではなく、みんなの幸せも祈るものとさせて下さい。すべてのお友達の上に、神さまの恵みと祝福が豊かに注がれますことを祈ります。

エス様のお名前によって祈ります。アーメン

2023年 12月

何年か前の晩秋、山梨方面をドライブしていた時のことです。黄金色に輝くカラマツの群生に出会ったことがありました。その輝きはあまりにも眩しく、圧倒されるほどの「輝き」で、迫って来たのです。心奪われる光景でありました。その後それ以上の「輝く黄金色」にであったことはありません。

 聖書には神の栄光に輝く描写が出て参ります。その輝きは、私が目にしたカラマツの輝きを遙かに超えた、想像することができないほどの、輝きであったことだろうと思うのです。

 寒い、寒い、冬の夜、震えながら羊飼いたちは、夜通し羊の番をしていたのです。突然その声は聞こえてきました。「主の栄光が周りを照らした」のです。目に痛いほどの眩しさが迫ってきたのです。

栄光に輝く天使たちの言葉と歌声は極寒の夜空に響き渡りました。その時、だれが理解することができたでありましょうか。それは人類に対する神の驚くべき、絶大な愛が実現したことの知らせであったのだということを!!

 キリスト・イエスの誕生は、人間の理性を遙かに超えている出来事でありました。理解できない事なのです。何千も前の預言の成就が実現したと言うことなど、だれ一人として想像できなかったでありましょう。しかし、想像できないことなど、日常茶飯事にひっきりなしに、起きているように思います。何か事件が起きるたびに、そのことは、大体において、私たちの理解を、想像を遙かに、いつでも超えているのです。新たな科学の発見も、医学の進歩も、学問の世界も、芸術も、私たちの理解や、思いを、遙かに超えていることどもが起こっています。そして将来も起こりうるのです。神の愛がこの世に現れたなどと言うクリスマスの出来事は、人間の思い、想像、理性、あらゆるものを遙かに超えている出来事であったのです。それが起こったのです。

12/3から12/24迄、教会はアドベント待降節・主の来たりたもう時を待ち望む時)に入りました。やがて、愛を語り、愛を教え、己を全くむなしくして他者のために生きたキリスト・イエスのご降誕を迎えることになるのです。

民全体に与えられる大きな喜びの日」「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 

この聖書からのメッセージを、主の栄光がまばゆいほどに黄金色に輝き、照らし出している天からのその言葉に耳を傾け、聞き分け、しっかりと受け止めたいと思います。

この時期教会は、闘いの世を憂いつつ、「キリストの平和、地には平和、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りつつ、「主の平安がすべての方々の上に注がれますように」と願っているのです。 

2023年 11月

創世記1:1節において聖書は「初めに、神は天地を創造された」と有無を言わせずに、神の存在を語っています。すべての初めに、神がおられたということです。パウロ新約聖書で語っています。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ロマ11:36)。

 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」何という神秘的な世界観でありましょうか。その混沌としている深い闇の中に神が「光あれ」と語ったのです。神自らが光と闇とを分け、光を昼、闇を夜と呼ばれたのであります。そして「夕べがあり、朝があった」と神の創造の第Ⅰ日目をそのように語るのです。

第Ⅱ日目第Ⅲの日も創造されたものを神は、「良し」とされたのです。Ⅳ日目第Ⅴの日も「良し」とされました。Ⅵの日、人間を創造したのです。神はお造りになった全てのものをご覧になって、「それは極めて良かった」と満足なさいました。「夕べがあり、朝があった」と聖書は記しています。第Ⅶの日に神はすべての仕事を離れ、安息なさり、この第Ⅶの日を祝福し、聖別なさったのです。

 

 天地創造が始まり、神のなさった御業の一つひとつには、「夕べがあり、朝があった」のです。夕べの出来事が先なのです。闇が、混沌が、訳のわからない、理解困難な状況、状態、そして出来事が、いつも先にあるのです。存在しているのです。

 戦争が起こっています。国は国に、もっともな理由付けをし、自国の保身、利益のために、領土拡大のために、戦いを止めようとはしません。そのために、神が愛を注ぎ、大切に大事になさり、「私の目にあなたは尊い」といわれた多くの人々の命が奪われているのです。麗しい自然は破壊されています。人間のなしてきた多くの環境破壊のために、地球は病み、痛み、叫び声を上げているのです。

「御心の天になるごとく、地にも成りますように」と、「良し、とされたもの」の、すべての破壊を止めなければ成りません。神の御心がこの地に行われることを諦めることなく祈り続けて行きたいと思うのです。

私たちの人生にも、理解困難な、闇のように混沌としている出来事が、起こって来ています。そこが始まり、スタート地点といっても良いほどであります。何の始まりでしょうか。どこに向かうスタート地点なのでしょうか。

 混沌とした闇は、理解できない、納得できないこの暗さは、朝へ向かっての出発地点なのです。暗い闇を通過しなければ、輝いている光の明るさを理解することはできません。私たちは度々、暗い夜を、深い闇の中を通らされます。長い、ながい、夜を経験したと致しましても、必ず夜は明けます。「夕べがあり、朝があった」と聖書は淡々と、当たり前のように記しています。そして朝と共に、喜びが私たちの上には訪れるのです。「朝が来ることを」、「必ず暗い夜が明けることを」、待ち望みたいと思います。

 

昼、主は命じて慈しみを私に送り、夜、主の歌がわたしと共にある、私の命の神への祈りが」(詩編42:9)と詩人は歌っています。いつくしみを送って下さる主がおられます。慰め、励ます、主の歌が、わたしたちの道連れなのです。