聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2025年4月からは小河牧師 開始から2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林牧師による文章です。

2月 2026年

 聖書の言葉                     牧師 小河 由美子

  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

ヨハネによる福音書15章12節

 

 旧約聖書には、神さまを信じる者として守るべき掟がいろいろ書かれていますが、イエス様はそれらを全部まとめて、「互いに愛し合いなさい。」と新しい掟を与えられました。私たちが「互いに愛し合う」ことによって、私たちの神さまへの愛が表されているからです。では「互いに愛し合う」には、どのようにすれば良いのでしょうか。

 イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」と説明されています。そして「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」、だからあなたがたも互いに仕え合うようにと教えておられます。しかし、そのようにしたいと願っても、人にはお互いの感情もありますし、できることと、できないことがあります。ですから一人一人の存在を大切に思いつつ、自分にできることをしていくことなのではないかと思います。

それでも無理なときは、正直にイエス様に「今は無理です。」と伝え、その人のためにイエス様のお守りをお祈りいたしましょう。

1月 2026年

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

ルカによる福音書2章52節

 

 ルカによる福音書2章41節以降に、イエス様が12歳の時の出来事が記されています。イエス様の家族が村の人々と共にエルサレムの過ぎ越しの祭りに行った時の話なのですが、祭りが終わって皆と一緒に帰り道を一日分の道のりを歩いてから両親はイエス様がいないことに気づき、一生懸命捜しながら再びエルサレムの町に戻り3日後にやっと神殿でイエス様を見つけることができました。

 その時、イエス様は聖書学者たちの真ん中に座り、聖書の言葉について問答をしていました。そこには親の心配をよそに充実した時間を過ごしていたイエス様の姿が描かれています。イエス様は神殿で天の父との親子の交わりの時を過ごしておられたのです。

 この後、イエス様は父ヨセフと母マリアと共にナザレの村に帰り、両親に仕えて過ごされました。イエス様は神さまの言葉によって知恵が増し加えられ、神と人とに愛されて成長していかれました。聖書は人に知恵を与え、神さまに愛されていることを悟らせ、成長へと導いてくださる神の言葉です。          

2025年 12月

                       牧師 小河 由美子

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイによる福音書1章23節

 

 子どもの頃、クリスマスは金、銀、赤、あるいは緑の色で装飾された靴下の形をしたかわいい容器に入ったお菓子とケーキを食べることができる楽しみな日でした。また、クリスマスにはプレゼントをいただいたりします。通常、プレゼントはお誕生日の人に差し上げるものなのに、なぜ私たちがプレゼントをもらったり、友人にあげたりするのでしょうか。不思議に思ったことはありませんか?

 実はクリスマスは、神さまが私たちにイエス様をプレゼントしてくださった記念の日です。だから、その神さまの御愛と御恵みに感謝して、互いにその喜びを分かち合うのです。

「神は我々と共におられる」、そのことがイエス様によって実現しました。イエス様はいつも、どんな時にも私たちと共にいてくださる神の御子です。私たちはイエス様のお誕生のお祝いにどのようなプレゼントをお贈りすることができるでしょうか。まごころを込めてクリスマス礼拝をお献げしたいと願います。  

2025年 11月

「神は愛です。」ヨハネの手紙Ⅰ 4章16節

 聖書には、いつまでも残るのは「信仰」と「希望」と「愛」の三つだと記されています。「その中で最も大いなるものは愛である」(コリントの信徒への手紙13章13節)と語っています。そしてヨハネの手紙では、「愛は神から出るものである」、「神は愛です」と教えています。

 イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めを弟子たちに与えられました。イエス様がそう命じられたのは、イエス様がまず私たちを愛し、愛するとはどういうことであるのか模範を示してくださったからです。それは互いに遜って仕え合う、互いに受け入れる、ということです。ヨハネの手紙の著者もまた、「あなたがたは神に愛されているのだから、互いに愛し合うべきです」と勧めています。

 「信仰」とは、神さまを信頼し、神さまの言葉に真実を確信することです。信仰によって「希望」が生じます。希望は私たちに勇気と生きる力と忍耐する力を与えます。そして信仰と希望は神さまの「愛」によって与えられるものです。

 神さまは永遠に存在する御方です。だから、神から出るそれらはいつまでも残るのです。神さまは、私たちが神さまの愛に生かされ、互いに赦し合い、互いに補い合い、互いの存在を尊ぶことを望んでおられます。

 

10月 2025年

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのです。」

ペトロの手紙Ⅰ 4章10節

 「賜物(たまもの)」とは、神さまから人間に与えられている素晴らしい贈りもののことです。その人が持っている様々な能力や才能、善きもの、祝福、恵みはすべて賜物です。

 一人ひとりに与えられた賜物はそれぞれに違いますが、神さまは、その人にしかない素晴らしい賜物を与えてくださっています。そのことを神さまに感謝したいと思います。

自分にはどのような賜物が与えられているか、すぐにわかる場合もありますが、それが何であるか気づかない場合もあります。自分に与えられた賜物は何か、それを見つけ出すことも楽しみの一つになるのではないかと思います。ペトロの手紙は続けて次のように告げています。

「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」

私たちに与えられている、さまざまな能力や才能が神さまから託されたものであり、その力の源が神さまにあることを知るとき、人は奢ること無く、謙遜に、その恵みを豊かに用いることができる者へと変えられる、そのように思います。

 

2025年 9月

 聖書の言葉      牧師 小河 由美子

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 

            詩編23篇1節

 詩編23篇は、イスラエルの第2番目の王、ダビデによって書かれました。「主」とは神さまのことで、神さまが「わたしの羊飼い」として、「わたしに」必要なものはすべて備えてくださるお方であると賛美しています。

 イスラエルでは、古代から神さまと人間の関係を「羊飼い」と「羊」にたとえて語られてきました。それは、羊が、弱く、無防備であり、いつも配慮する者や監督する者が必要で、そのような羊に対して羊飼いが密接に世話をしたからです。

 羊飼いは、羊のために、いつも注意を払い、乾燥した、暑さのきびしいパレスチナで、毎日規則的に水を与え、野獣、盗人などの来襲から守らなければなりませんでした。詩編23篇4節には「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあるのですが、羊飼いは、長さが1.7mの、その一端が曲がった建材の杖を持ち、群れから離れた羊を引き戻すために用いたと言われます。また長さ75㎝ほどの一端が太く、すりこぎのような形にしたものに釘を打ち込んだ建材の棍棒(しもと)を持ち、群れに襲いかかる野獣を撃退するのに用いたそうです。さらに遠くから猛獣を撃退するために投石器を用いました。そのように羊飼いは、猛獣や略奪者から群れを守ったのです。時には血を流し、生命を捨てることもあったそうです。その羊飼いと同じように神さまは、人間が神さまのもとから離れ、道に迷ってしまったときに、その人をご自分のもとに連れ戻してくださり、命の危険から守ってくださるお方であることを感謝してほめたたえているのです。

 また羊飼いは、夕刻に、羊の群れをおりに入れる時には、おりの入口に立ち、杖の下をくぐらせながら羊の数を調べるのだそうですが、それぞれの羊には名前がついていて、羊飼いは一匹一匹がどの子かわかったそうです。そして羊たちも自分の羊飼いの声を知っており、他の群れと一緒に混ざることがあっても、それぞれの羊飼いの声を聞き分け、自分の名を呼ぶ羊飼いのもとに集まるそうです。羊飼いには相当の苦労もありますが、時には群れを見守りながら昼は樹の陰に憩い、沈かに黙想し、夜は星空を仰いでその広大な美しさに心を打たれることもありました。ダビデは少年時代、羊たちの世話をしていたので、その体験を通して神さまの恩寵をこの詩編23篇に記しています。

 イエス様は、「私は良い羊飼いである」と言われました。良い羊飼いは自分の羊を命をかけて守るからです。イエス様は、ご自分の命を捨てて、私たちに神さまと共に生きる新しい命を与えてくださいました。そして今も生きて働いておられ、私たちを守り、憩いの水際に伴い、魂を生き返らせてくださる「わたしの羊飼い」であられます。

2025年 7月

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」 

 テサロニケの信徒への手紙5章16節-18節

 

 この聖句は、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙』の中に記されています。『テサロニケの信徒への手紙』は、キリスト教の大伝道者パウロという人が書いたもので、新約聖書の中にある手紙の中で一番早くに書かれたものです。

「いつも喜ぶ」ことができたら、どんなにか素敵でしょうと思いますが、私たちには喜べる時と喜べない時があります。また「どんなことにも感謝しなさい」と言われても、感謝できない場合も多々あります。

 実は、パウロが、この手紙を書き送った目的は、テサロニケの教会の人々を励ますためでした。パウロ自身、この手紙を書く前や、書いている時も、また書いた後も、大変な困難や苦闘がありました。でも、神さまがいつも共にいて彼を助け、支え、勇気を与え続けてくださったので、パウロとイエス様を信じる弟子達の働きは、神様に祝福され、イエス様を信じる人々が各地に起こされ、教会が建てられていったのです。

 それでは、このパウロの言葉を現代に生きる私たちに向けて語られた聖書の言葉として受けとめ、これらの言葉を守ることができるだろうかと考えたいと思います。

 「いつも喜ぶ」ことができるのは、どういう時でしょうか。自分にとって一番大切な存在、愛おしい存在を心に思い浮かべてみてください。それは過去の存在であっても大丈夫です。その存在を思い浮かべるとき、私たちの心は嬉しく思い、いつも喜ぶのではないでしょうか? イエス様を信じる人は、どんなことがあっても、イエス様がいつも一緒にいてくださることを知っているので、イエス様の存在を喜ぶことができます。悲しくても、辛くても、苦しくてもイエス様を喜ぶことができます。ちなみに私はイエス様以外には、愛する猫のタコハチ(もう天国に行っています)を思い浮かべると、自然と心が喜びます。

 「絶えず祈る」ということは、すべてをご存じのイエス様に何でもお話することです。自分の心の中にある思いをイエス様にお話するのです。嬉しいことも、嫌なことも、悲しいことも、いろいろな願いも、すべて自分の心の中の思いをイエス様にお話するのです。これなら何とかクリアできそうな気がします。

 むずかしいのは「どんなことにも感謝する」ことではないかと思います。日々の生活の中で、今、生かされている命、日々与えられる食事、豊かな自然の恵み、家族のこと、子どもたちのこと、様々な恵みを覚え、感謝することができます。でも「どんなことにも」という点でハードルが高くなります。「そこまで心が広くない」と開き直ってしまえばそれまでですが、「長い目で考える」ということが、私たちの心を広くさせるのではないかと思います。「今の苦労は、将来、きっと何かの役に立つ」そう考えると忍耐力が養われます。

 聖書に「万事が益となるように共に働く」(ローマの信徒への手紙8章28節)という言葉があります。これは旧約聖書の物語を通して神様が私たちに与えてくださる知恵でもあります。神様に愛されていることを知り、神様が自分にとって最善を為してくださるお方であることに信頼いたしましょう。