菊池牧師による聖書の言葉

文章はドレーパー記念幼稚園で発行する園だよりからの転載

2021年 2月

「愛はすべてを完成させるきずなです。」   

      (コロサイの信徒への手紙3章14節)

 

 先日、食事をしていた時、家内が話しかけてきました。スマホでユーチューブか何かを見ていたようで、子育てについての話を聞いていたようです。

「さっき、スマホで見たんだけど、子どもには、愛情をもって育てましょう、といった漠然とした愛情論なんかより、鼻の先に人参をぶら下げるようにして、やる気をださせた方が伸びるって話していたわよ。」

「なるほど、宿題を先にやったら、ゲームをしていいよって感じなのかな?」

「そうそう、具体的に鼻の先にぶら下げると効果あるんじゃない。」

「そうかも!でも、僕のところに相談に来たりする人は、『そんなことは、とっくの昔に試してみたけど、全くダメなんですけど!』という人が多いよ。」と答えて、二人で笑ってしまいました。心当たりのある方は、どなたもいないと思いますが。(笑)

 

 今月の聖書の御言葉は「愛はすべてを完成させるきずなです」とあります。絆とは「関係」という言葉に言い換えられます。子育てに限るわけでもありませんが、人が楽しく生きていくために必要なのは「良い関係」です。子どもに対する良い関係、夫や妻に対する良い関係、家族、友達に対する良い関係、コロナ禍の中で、家族が一緒に過ごす時間が多くなったご家庭も多いと思います。

 それは悪い事ではないはずですが、案外、それが楽しいだけでもなく、むしろ疲れたり、なんだか腹がたったり、いらだったりすることも多いかもしれません。そんな話を最近よく聞きます。なぜそうなるのでしょうか。

 苛立ったりする原因は、相手の言動にあります。気になる言葉を聞く、気になる行動をする。気になることは大抵の場合「気に入らない」ことです。子どもが親の話を聞かないとか、夫が、妻が、思ったように動かないとか、気に入らないことの連発が積もって来て、更に苛立つ。既に鼻に人参をぶら下げるような小手先の技は使いきり、こちらも手の内が無くなってくると疲れもたまる、というものです。そして、「関係」が悪くなってきていると思ったらご用心です。

 

 関係の修復に必要なのは、その人が何を言っているのか、何をやっているのかを気にするのではなく、その人の「存在」を喜ぶことです。愛する二人が結婚しようとする時、二人の間には強い絆があります。互いの「存在」を確かめ合い、共に喜んでいるからです。この絆は生涯変わることがないと信じて結婚したはずです。ところが人はいつの間にか、相手の行動や、言葉に引っ張られて、「存在」を喜ぶ思いが減ってきてしまう。生まれてきた幼子は、一切何も出来ません。でも、まさにその「存在」を誰もが喜ぶでしょう。ところが、大きくなればなるほど、何をしているのか、何を話すのか、がとても気になるのです。そして「存在」を慈しむ思いが減ってきたりするのです。だから、大切なのは、何をしているのかではなく、「存在」を喜んでみましょう。「そのままのあなたが本当に素晴らしい」そう思えてくると、生きるのが楽しくなります。

 聖書が伝える愛の姿は「ギブ&テイク」ではなく、「ギブ&ギブ」です。皆さん、ギブ&ギブで、元気に楽しく、コロナ禍の辛い世の中を、楽しんで過ごして行きましょう。

 

2021年 1月

「神は愛です。」   (ヨハネの手紙Ⅰ 4章16節)

 

 新年、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 今年も、楽しんで行きましょう、と思っていましたが、コロナ禍で緊急事態宣言が出され、教会は1月10日の礼拝より、2月7日までの5回、礼拝を休むことになりました。礼拝には高齢者も多く出席され、礼拝があると無理しても来られる方もおられるかもしれません。思い切って「休む」ことにしました。

 でも、その5週間、教会の皆さんと繋がり続けていく方法を考え、思いついたのは、「大塚平安教会ウーバー週報」です。週報に説教の原稿を加えて、色んな情報も入れて作成して、教会の皆さんに配ったら楽しいかなと思い、早速作成して、今あちこちに配っています。(「ウーバー週報」欲しい方は教会にあります。)

 

 その説教原稿にも記しましたが、なぜコロナウィルスが怖いのかというと、感染して究極の場合には死んでしまうかもしれないからです。この病気を通して「死」を見る思いがするからです。知らない間に人に感染させてしまうかもしれないとか、密を避けなければならないとか、色んな事が言われていますが、「感染したら死ぬかもしれませんよ」と言われた方が人は自粛し、自らを規制するかもしれません。

 薬もなく、医療崩壊寸前と言われている状況では、尚更コロナに感染したとなると、「死」を覚悟しなければならないかもしれません。風邪やインフルエンザも、熱が出て大変ですが、多くの場合は死を覚悟するほどではありません。薬もあり、大丈夫と思っているので非常事態にはなりません。

この状態は、例えば戦争とか大規模災害とか大飢饉に似ているとも言えます。非常事態が宣言されてもおかしくはないのです。

 

 今月の聖書の御言葉は「神は愛です」です。聖書の中で最も短く、しかも適確に神様の性質、性格を表している御言葉だと思います。こんな非常事態に神様は何もしないのかと思われるかもしれませんが、確かに神様が直接現れて解決して下さることは無いかもしれません。でも、神様は、神様の御言葉を通して、私たちに働きかけておられます。「愛」を大切にしなさい。「愛」によって生きていきなさい。「愛は全てを完成させるきずなです」という御言葉も聖書にあります。

 きずなとは繋がりです。自粛が求められ、会食や社会活動が規制されるような時ですから、必要な関わりや交わりも制限されます。活動が停滞すると活力も失いがちになります。体や心に変調をきたすこともあります。人が健全に生きていくためには人と人との愛のあるつながりがどうしても必要なのです。夫婦間や親子間で喧嘩することがあります。喧嘩しても互いに話し合えるのであれば心配ないかと思いますが、何も会話が無い、という状態は良くありません。つながりが無くなるからです。そこに愛が消えてしまうからです。

 コロナ禍の中にあっても、私たちはつながりを大切にしてきましょう。子どもが豊かに健全に成長するためにも人と人のつながりがどんなに大切か皆さんも感じておられるでしょう。人と人とのつながりをしっかり守っていくためには、神様と人とのつながりが大切です。神様から愛のエネルギーをしっかりと頂いて、状況に窮して、落ち込んでいかないで、状況をしっかりと受け止めつつ、更に愛を持って元気に過ごしてまいりましょう。皆さん、今年も宜しくお願いします。

 

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2020年 12月

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」 (マタイによる福音書2章10節)

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」この星とはどんな星でしょうか。一つは占星術の学者たちと御子イエスを出会わせた星ということです。占星術の学者とは占い師とか魔術師とも言われますが、現代で言えば、天文学者気象予報士、薬剤師、自然科学者といった当時としては最先端の知識を持った人たちだったと思います。そんな彼らが夜空を見ていると、彼らの知識では考えられない特別な星を見つけたのでしょう。星を調べたところ、ユダヤの王として誕生される方の「印」と分かり、喜びに溢れて東の国から12日間の旅をして御子イエスの所へやって来たというのです。

 星は幼子のいる場所の上に止まり、家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。

 黄金、乳香、没薬は、当時、最高に価値のあるものでした。学者たちは心からの礼拝を献げました。

 私は学生の頃、A山学院大学の理工学部の図書館でアルバイトをしていました。蔵書の80%以上は、理工系の図書であり、文学書、語学書、一般書は残りの18.5%位で、キリスト教関係の書籍は多く見積もって残り1.5%位でした。その書籍を使用するのは、私と宗教主任の先生だけでした。毎週月、水、金の昼には礼拝がありました。割合に多くの学生が礼拝に出席していましたが、むしろ先生方が熱心に礼拝に出席しているのが印象的でした。文学部の礼拝よりも出席者が多いのではないかと思ったりしました。私の妻は、長嶋で有名なR教大学です。そこでも毎週礼拝が執り行われていたそうですが、当時は牧師と数名の学生の礼拝だったと聞いています。

 理工系の教授と言えば、科学の最先端を研究している人という印象があります。でもそのような研究、学問をすればするほど、自分は「知らなければならない知識すらも知らない」と思うようになり、研究のその先に果てしない未知の世界があって、自分はほんの少ししか分かっていないと自覚するのかもしれません。そして、その先の先に、神様のような存在を感じてしまうのかもしれません。

 占星術の学者たちも、星に導かれて御子イエスと出会うために旅をしたのは、自分達の知識の遥か先にある大いなる方の存在を信じていたからではないでしょうか。

 私は、毎日聖書を読み、毎日祈り、毎日教会で過ごしていますが、いつのまにか神様について分かっているような感覚になり、どこかで神様と出会う感動を忘れているようにも思います。

 神様と出会う感動を改めて取り戻すのは、やはりクリスマスの時期なのです。父なる神が、私たちのために、私たちを愛する故に、神の御計画のうちに御子イエスを誕生させて下さった。そう思うと心が高ぶります。

 御子イエスのもとへ導く星は、私たちの人生の上にも光り輝いています。人生は人と人との出会いです。親と出会い、家族と出会い、友と出会い、仲間と出会い、伴侶と出会い、出会った一人一人との間で私たちは生きています。その出会いは、私たちを神との出会いへと促す星の導きだと思います。

 今、社会はコロナ禍で暗い時期を通過中ですが、このことをも通して、ずっと先におられる方が、御子イエスを、私たちの身近な方として誕生された。この奇跡の出来事を、感動を持って受け止めて、神の愛と出会えるクリスマスを過ごしていきたいと思うのです。

2020年 11月

「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」 

ヨハネによる福音書15章12節)

 

 先日、「やめるときも、すこやかなるときも」という小説を読みました。作者は窪三澄、これまで作品を読んだことのない作家でした。実際のところタイトルに惹かれての購入でした。いつ、タイトルの言葉が出て来るのか、つまり結婚式が行われるのかと期待しながら読みましたが、その場面は最後まで登場しませんでした。主人公は家具作り職人の須藤壱晴と、小さな出版社に勤める本橋桜子が繰り広げる、大人の純愛小説といったところでしょうか。ネタばれしないように、あまり内容については入りませんが、様々な出来事を通して、二人の心が大きく揺れ動く、その様子が読む者を惹きつける良い小説だと思います。

 少し文章を引用しますが、桜子と壱晴との関係が上手くいかなくなってきたとき、桜子が心の葛藤を記した場面です。

 「壱晴さんに対しては、貝のむき身みたいな自分をさらして向き合ってきた。少し砂がついたくらいで痛い痛いと泣いてしまうような自分。誰にも見せたことのない姿。壱晴さんだってそういう姿を私に見せてくれたのだと思っている。けれど殻をぴたりと閉ざしてしまえば、そんな人間の生身の部分なんてすぐに隠れてしまう。」

 この言葉はとても印象に残りました。社会生活を送る上では、私たちは無用に傷つかないように、普段は固い殻で柔らかい中身を守って生活しているのだと思います。どんな人にも「貝のむき身」の部分があって、そこはとても傷つきやすいものです。その「むき身」を自然に見せられる相手はそうはいません。両親とか、夫婦とかごく限られた関係でしか見せられないものだと思います。しかも、人は長く生きていると無傷のむき身の人は殆どいないでしょう。

 相手の「むき身」をどのように受け止め、どのように愛するか、それぞれだと思いますが、でも、この人なら受けとめ、愛し続けようと決心して人は結婚するのではないでしょうか。

 キリスト教の結婚観は「やめるときも、すこやかなるときも」です。互いが健やかなときは、問題無いとしても、大切なのは、やめるときです。やめるとは「病める」、病気を連想しますけれど、病気に限らず、例えば、会社が倒産したとか、子どもが学校に行かないとか、危機はいつでも起こり得ます。最近でいえばテレワークで思いがけず夫婦がいつも一緒にいるということさえ、危機を感じることがあるようです。

 それぞれの家庭にそれぞれの「やめるとき」があると思います。でも、そんな時でも、互いに愛して、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを、約束して結婚したはずです。キリスト教式の結婚式はしていないと言っているあなたも、心の中は、必ずそうなっていたはずです。でも、いつの間にか、少しずつ薄れて来ることもあるでしょう。忙しさの中で忘れていくこともあるでしょう。

 だから大切なことは、あの時のあの気持ちに戻ることです。あの時のあの気持ちとは、貰ったから、その分のお返しとか、ギブ&テイクのように、贈られたから、こっちもそれなりものをといった気持ちではなかったはずです。まさに「やめるときも、すこやかなるときも」どんな時も、この人を守ろうと決心したはずです。その気持ちが、今月の聖句の中に込められている意味です。「互いに愛し合いなさい」とは、ギブ&ギブという意味です。互いがそのような気持ちを持って歩んでいきなさいという意味です。そのような人生を昨日も、今日も、明日も、私たちは生きていきたいものだと思うのです。

2020年 10月

「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」 (詩編92編2)

 猛暑が続く8月の末に体調を崩しました。水曜日に風邪をひいた感覚があり、喉が痛く、熱もある感じがしました。測ってみたら平熱なので様子を見て過ごしました。けれど翌日の木曜日も金曜日も回復せず、決心して医者に相談してPCR検査を受けました。結果は陰性で、一週間後には回復して元気になりましたけれど、この時期、ささいな風邪の症状でも不安は頂点までいくなぁ、と改めて思った次第でした。月末は園だよりの原稿を上げる時ですが、ついに9月の園だよりは書けず、落としてしまったのが悔やまれます。

 新型コロナウィルス感染予防の為「ソーシャル・ディスタンス」と言われて既に半年が過ぎます。新しい生活様式とも言われますが、この生活様式は感染予防の為の配慮です。けれど、その影響により、テレワークが普及し、出勤せず家で仕事や、テレビ会議、オンラインでの生活が多方面に、しかも急速に広がっています。感染が終息して元に戻ったとしても、この生活様式は元に戻ることはないと思います。私たちの生活は確実にIT化が進んでいます。先日、家族で回転寿司に行きましたが、ペッパー君が出迎え、表示されたテーブルに座った後はボタンで注文すると、回転しないベルト上に、あっという間に注文の品が届きました。店員の誰とも会話することなく美味しく頂くことが出来ました。店員と話したのは会計の時だけだったと思います。近い将来、回転寿司に限らず、コンビニ、スーパーで店員はいなくなるでしょう。便利な世の中になってきたとも言えるでしょう。

 けれど、そのような社会の中で失われていくものもあります。

一つは、人と人の関わりです。人は一人では生きていけません。人は人との出会いを求め、自分の伴侶を探す時期が与えられ、結婚し、家庭、家族、社会が形成されていきます。良い社会とは、政治や経済、物量で決まるものではなく、人と人とが互いに信頼しあえる社会だと私は思います。過度なIT化は人と人との関わりが希薄となり、他人との関係性、信頼性、共存性、そういった関わりや交わりを通して会得する社会性が成長しにくくなります。社会性の喪失は出会いの喪失を意味します。

その為、失われて行く二つ目は、心の栄養です。人の心には愛情や信頼、励ましや慈しみ、といった人と人とが相互に与えあう感情によって栄養が補給されていくものです。それらの感情はペットやロボットによって多少は補給されるとしても、偏りがあるか、一方的なものとなるのではないでしょうか。

 失われて行く三つめは、人は生きているのではなく、「生かされている」という命の大切さです。人と人との関わりは、命の関わりです。その関わりの中で、命の誕生、成長、更には命の喪失といった喜びや悲しみを人は体験します。そのような体験を繰り返しながら、命の大切さ、命の有限さを感じ取るものだと思います。人は互いに生かされて生きているという感情は、人間社会を憎しみや、争い、戦争といった悲劇を起こさない、繰り返さないためにも必要不可欠な感情だと私は思います。

 聖書は、私たちに命を与え、命を生かし、どんな時も、誰よりも励まし続けて下さる方がおられることが記されています。この方が私たちの人生に強く関わりを持ってくださろうとした思いが記されています。この命の造り主を知る時、私たちは心の渇望から救われて、潤いのある命を取り戻すことが出来るのです。この方を知ると、希望と喜びが与えられます。そのような体験をした者が、喜びの中で、主に感謝を献げることがどれほど楽しいかを記しているのが今月の御言葉です。

2020年 8月

「主はすぐ近くにおられます」   (フィリピの信徒への手紙4章5節)

 今月の聖書の御言葉は「主はすぐ近くにおられます」です。その前後にはこう記されています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

ここに「喜ぶこと」、「思い煩わないこと」、「感謝を込めて祈ること」の三つが記されています。

 先日の水曜日、ほし組さんだけの「キャンプ・パーティ」を行いました。私は美味しい所だけ参加して、ほし組さんと一緒にカレーライスを頂きました。食事の後に短い礼拝をしました。その時に、私が生まれた時の話をしました。一年で一番寒い1月に私は誕生しました。家の中で助産婦さんに助けられながら、母は私を産み、あまりに寒かったので、布にくるんでこたつに入れたそうです。何気ない話ですが、私はこれまで千回は聞いたかもしれません。それから、夫婦で名前をどう付けるのか悩みに悩んで名付けた、という話も合わせて聞きました。子ども心には、一体何を言っているのかと思っていましたが、親になって分かるのは、子どもの誕生にまつわる喜びの一コマ一コマを子どもに話したかったのだと分かるようになりました。 

 子どもの誕生は特別な喜びです。生まれた我が子が、泣いたり、笑ったり、寝返ったり、座ったりする一つ一つが親にとってはかけがえのない喜びです。その喜びを子どもと一緒に喜びたいので、どうしても生まれた時の話をしてしまうのだろうと思います。だから星組さんの皆さんよ、あなたがたが誕生した時に、家族全体の喜びはどれ程であったろうかと話をしました。

 大切なところは、自分が生まれて来た時の話をされても、子どもは上手に理解出来るかどうかわかりません。でも自分の親が目をキラキラさせて話をしてくれる。その話をするたびに喜んでいることがわかる、という所ではないでしょうか。子どもにとって親が喜んでいるだけで、自分の喜びとなり、そこに安心があり、平安があります。お母さん、お父さんがいつでもどんな時でも、自分と一緒にいてくれる。だから、ありがたい、とは思いません。むしろ当たり前です。親はいつも自分を愛してくれて、自分を大切にしてくれる、それは実に当たり前です。そこに疑う余地が少しも無い。そういう環境が与えられてこそ、子どもは毎日笑顔で元気であり、時にはいたずらや、わがままが言えると思います。

 どう育てようか、どう躾けようかと悩み、思い煩わないようにしましょう。良質な子育ては、毎日、自分が喜んで生きることです。子どもは親が立派な仕事をしているかどうかよりも、近くにいてくれることが喜びです。聖書には「主はすぐ近くにおられます」とあります。私たちが、どんな時にも喜べる理由は、いつでも神様が自分の側にいて下さり、親が子の存在を喜ぶように、神が自分自身の存在を喜んで下さっているところにあります。

 子育てをする、家族を守る、実際は容易ではありません。毎日休みなく、次から次へと課題が与えられ、家族も子どもも思うようには動いてくれないと思っていませんか。でもよく考えると家族がいるのは当たり前ではありません。それぞれに伴侶が与えられた時の喜びはどれほどであったでしょうか。子どもが誕生した時の喜びはどれ程であったでしょうか。その時を思い返すだけで、心と体が喜びに溢れるように、神様は私たちの誕生も、私たちの命も、私たちの家族も、私たちの社会をも守ろうとし下さっていることを忘れないにしましょう。どんな時も主は近くにおられます。