菊池牧師による聖書の言葉

文章はドレーパー記念幼稚園で発行する園だよりからの転載

2022年 5月

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国

はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)

 

 月に一度、「聖書に親しむ会」を行っています。数名の皆さんと一緒に聖書を読んで、その後は、ほぼフリートークに近い会です(笑)。でも自ずと話題は子育ての話となり、子どもが泣いたり、笑ったり、怒ったりする様子を話しながら、子育ての大変さを話したり、笑い合ったりしています。時には涙する時も。幼稚園を卒業した子どもたちのお母さん方が集まって「発展・聖書に親しむ会」も月に一度行っています。既に高校生となった子のお母さんもやって来ます。話をする中でいつも感じるのは、子育ては小学校に入っても、中学校に入っても、高校生になっても、楽になったと思うことはなく、いつも相変わらず大変だということです。勿論、大変さの意味はそれぞれに違い、悩みも違うのですが、「楽になりました」という言葉は殆ど聞きません。でも、「大変です」と話される方々の顔と目には違う表情も見えて、それは、子育ての喜び、子どもと共に歩む幸せ、将来に対する大きな希望、一言で言えば人生の充実ということでしょうか。そんな幸いな光を、その場に共にいる全員が、共有出来たりもします。

 

 この文章を読んでいる皆さんは、母であり、父であり、親ということになるでしょう。親の気持ちとしては、我が子は何歳になっても少しも変わらず可愛いものですし、圧倒的に愛すべき存在です。無条件で愛せます。でも、親はどうしても「上から目線」で子どもを見てしまいます。私が40歳位の時、久しぶりに帰郷して75歳の父親と話しをしていた時も結局一人前のようには扱ってくれず、苦笑いをした思い出があります。子供はいつまでも子どもです。それが親の感情であると思います。

けれど、子どもに対して「上から目線」だけの目線では、子どもはいつまでも子どもであろうとします。あなたは子どもなのよ!というメッセージを与え続けているからです。子どもはそのメッセージを敏感に受け止め、親の願いであるところの「子ども」を演じようとするのです。自らが成長していこうとする力を制限してしまうかもしれません。

 

 そうならないように、時には「上から目線」ではない目線を送る必要があります。それは、親の私も、子どものあなたも、同じ人間で、同じように悩み、同じように喜び、同じ命を生きているのよ、といった「横から目線」です。

 イエス様は「子供たちをわたしのところへ来させなさい」と話されました。それは親のあなたは、子どもたちをイエス様のところへ送り出すようにと求めたのではなく、親のあなたも、子どものあなたも、皆が神様の子どもとして集まるようにと話されたのです。親子は互いに目線を合わせて見つめ合うものですが、時には、同じ方向を見て過ごす時間が必要です。同じ方向とは神様の方向です。「横から目線」という状態を一緒に過ごすのです。きっとそれが親子の健やかな成長へと繋がると私は信じています。

「聖書に親しむ会」にも是非おいでください。今年度も楽しい時間を一緒に過ごして参りましょう。

2022年 4月

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、

羊もわたしを知っている。」(ヨハネによる福音書10章14節)

 

 4月8日(金)に入園式が行われました。暖かな春の天候で笑顔溢れる良い入園式となりました。式の後、園庭に降りて馴染みのお母さんと話しましたら、2年前は入園式そのものが開催出来ず、更には暫くの間休園でしたと伺いました。コロナ感染拡大予防のために、私たちはマスクをしながらの生活ですが、改めて2年前を思い出し、大変であったこと、コロナ感染の影響が長く続いていること等を思わされた次第でした。

 今年の入園式、私はいつもに増して緊張していました。顔がこわばり余裕がなく、気持ちが上ずっていました。落ち着かなければと思いながら椅子に座り、式が始まる時間をこわばった顔で待っていました。すると、横にいた一人の園児が私の顔を見つめながら、笑顔でじゃれついて来ました。緊張している様子もなく自然でいつものように楽しそうに話しかけてくるのです。

 その子の笑顔とちょっぴりのじゃれ合いの時間は、まるで神様からの贈り物のようで、私の緊張を解きほぐすだけでなく、大切な事を教えているかのようでもありました。お蔭で緊張から解放され、楽しく入園式に臨むことが出来たので余計に嬉しく思ったわけでありました。

 人はなぜ緊張するのでしょう。色々な理由を挙げられるでしょうが、失敗しないようにとか、人前でみっともない姿を見せたくないとか、いつもの自分以上の力をだそうとか、つまり、人目を気にして、力んでしまうので緊張してしまうのでしょう。それが良い方向に向くこともありますが、多くの場合はあまり良い結果にはなりません。

 今月の聖書の御言葉は、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」です。良い羊飼いはイエス様で、羊はわたしたちです。良い羊飼いの特徴は「羊のために命を捨てる」です。昼には牧草を求め、水を求めて、羊が迷子にならないように導き、夜には野生の熊や狼に狙われないように、羊泥棒に襲われないように一晩中火を焚いて、野宿しながら起きて番をします。何十匹、時には百匹以上いるとしても一匹一匹を見間違えることもありません。そのような羊飼いがいる群れの羊は、いつも安心して生活できるのです。

 イエス様が「わたしは良い羊飼いである」と言われたのは、羊であるわたしたち一人一人を良く知っていて、良く分かっているから、あなたがたは安心して過ごしなさいと教えられたということです。私たちは人の目を気にします。気にし過ぎることもあります。そうすると委縮して緊張して、こわばってしまいます。だから人の目ではなく、神様の優しい目が注がれていて、いつも大丈夫という思いを持ちたいものです。そのような安心の中で幼稚園生活が始まり、いつもに増して笑顔と喜びの一年に、皆で一緒にしていきましょう。

 

2022年 3月

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」   

         (マタイによる福音書28章20節)

 

 ロシアが一方的にウクライナに宣戦布告し、突入、空爆、爆撃を始めました。なぜそうなったのか?原因は何か?詳細は分かりません。ロシアのプーチン大統領は自分の正しさを主張しているようですが、いかなる理由にしても、武器を持ち人の命を奪う行為が正当化されるとは思いません。ロシアは核による攻撃をも示唆する言動を繰り返し、世界中に恐怖を与えています。ほとんど正気の沙汰ではない言動です。

 政治的、経済的、あるいは東西問題に関する事柄については複雑かつ私の能力を超えたところですから記せませんが、私が考えている点を三つ記します。

 

 一つは、プーチンは権力を長く持ち過ぎたのではないか、です。彼は1999年に権力者となりました。20年以上に亘り首相か大統領のどちらかの役職ですが、実際はどっちにしても独裁政権です。人は誰であれ、権力を持ちすぎると、いつの間にかそれを守るために人を犠牲にすることさえ厭わなくなることがある。そのことを思わされます。

 二つめは、権力者が抱える不安です。イエス様が誕生された時、東の国の三人の博士が星に導かれてユダヤの国にやってきました。ユダヤに到着し、城でヘロデ王に会って「ユダヤ人の王として生まれた方はどこか」と聞いた時、ヘロデ王は不安になったと聖書は記しています。ヘロデ王は自分が王なのに、別の王がいるなんて!と思うと不安と恐れが広がったのでしょう。自分の地位が脅かされるのではないかと思うと、人は時として、とんでもない行動に出ることがあるのです。

 三つめは、信頼する友がなく、相談する相手がいなかったのではないか、と思います。ドイツのメルケル元首相は旧東ドイツ出身で、若い頃からプーチンと知り合いだったと聞きました。良い話し相手でもあったようです。もしかしたらメルケルさんが、今もドイツの首相だったら、こうはならなかったのではないかとラジオの解説者が話していました。

各国の首相との関係が上手くいかず、心を打ち明けられる友がなく、自分は仲間外れになってしまった、とマイナス思考になっていたことも戦争の原因かもしれません。

 

 いずれにしても戦争は許されることではありません。けれどより一層はっきりするのは「人は弱く、脆く、儚い」ということです。人は一人では生きていけません。互いに助け合い、励まし合い、赦し合ってこそ平安に生きていけるものですし、なによりも究極的には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われる主イエス・キリストの御言葉に支えられて生きていくしかありません。この世を造られた神様が私たちの友となってくださり、若い時も、結婚しても、苦しい時も、楽しい時も、コロナ禍であっても、いつも一緒にいてくださる。この方の愛に包まれて、今も、将来も、子どもたちが安心して、笑顔で過ごせる社会を目指して、また新しい年度を目指して3月を過ごしてまいりましょう。

 

2022年 2月

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共になきなさい。」   

                (ローマの信徒への手紙12章15節)

 

 私にはイエス様を知らなかった人生と、イエス様を知った人生の二つの人生があります。イエス様を知らなかった頃の自分の写真を見ると、そこに笑顔はありません。父親が彫刻家で、気難しい人でしたが経済観念がほぼなくいつも貧しい生活でした。裕福な家の友達が羨ましいと思っていました。バイクに乗って高校に来る友達が羨ましいと思っていました。塾に生ける友達が羨ましいと思っていました。家が貧しいので自分の願いの殆どは叶わないと思っていました。人生はつまらないものだと思っていました。

 自分の人生が上手くいかないのは、家庭のせいであり、親のせいであり、社会のせいだと思って生きていました。どんなことをしてもどうせダメだろうと思っていました。

 その頃の私の心は、喜ぶ人を見ては悔しくなり、大学に合格した友を見ては悲しくなり、とても一緒に喜びあうことは出来ませんでした。そういう自分であったと思います。

 イエス様を知った時、自分も神様の目から見たらものすごく愛されていることが分かりました。愛されていたのに家庭のせいにして、親のせいにして、社会のせいにして諦めていた自分の愚かさを知りました。上手くいかないのなら、上手くいくように生きていけば良いのだと分かった時、嬉しさと共にやる気も出てきて、人生で初めて前を向けたように思います。とはいえ「前を向いて生きていこう」と決心しても、周りの社会状況も変わらず、貧しい生活も変わりません。でも、決心して教会に通い、牧師と話し、信仰の友も出来、心から生きてきて良かったと思うようになっていました。相変わらず生活には苦慮していましたが、それすらも気にならなくなりました。その頃、やっと私は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くこと」が出来るようになって来ていたと思います。

 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける人は、自分を喜んでいる人です。他人と比較しながら自分のポジションを決める人でもなく、優越感や劣等感に悩まされる人でもなく、悲観的、否定的に生きる人でもありません。

 生きていると、言葉に表し尽くし得ない色々な出来事が起こります。その出来事に心も体も翻弄される時もあります。でも、どんな時も自分は神様に愛され、祝福を受けていると感じられるなら大丈夫です。私たちの人生は一度きり、人生は常に練習無しの本番舞台です。その主人公はあなたです。誰とも比較しない、比較できない、あなたならではの生き方を豊かに生きていきましょう。

 新型コロナウィルス感染により、もしかしたら2月は過去最高の感染者数になるかもしれません。もはやだれが感染しても不思議ではありません。緊張と不安の中での毎日です。でも、「全ての事が共に働いて益となる」と聖書にはあります。

今日も前を向いて生きていきましょう。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける人として生きていきましょう。

2022年 1月

「光の子として歩みなさい。」   

(エフェソの信徒への手紙5章8節)

 聖書を読むとエルサレムに神殿が三度建設されたことが記されています。一度目は紀元前10世紀にソロモン王が建設した神殿、二度目は紀元前510年ごろに建設され、三度目は紀元前20年ごろに二度目の神殿の大改修という形で建設されました。イエス様が誕生された時代は、三度目の神殿が建てられていた時代でした。

 ソロモン王の前の時代までは幕屋といって、いわば大きなテントが神殿の代わりを務めていました。ソロモンの父であるダビデ王は、神殿を建てたいと願い、準備しましたが生前には完成せず、それをソロモンが受け継ぎ、二代にわたる願いが叶ったことになります。

 ソロモンの神殿が完成した時、ソロモンは神に感謝し祈りました。祈りが終わった時、「天から火が降って、焼き尽くす献げ物といけにえを、ひとなめにし、『主の栄光』が神殿に満ちた」とあります。そのあまりにも光輝く神殿を前にして、祭司の誰も神殿に入ることが出来なかった様子が聖書に記されています。

 「光の子として歩みなさい」とは神殿に満ちた『主の栄光』、つまり神様の輝きを受け入れて歩みなさいという意味です。この主の栄光は、御子イエスが誕生された時、寝ずの番をしていた羊飼いの所にも現れました。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」と記されています。羊飼いは当初恐れましたが、次第に恐れが喜びに変わり、力を得て、誕生した御子イエスのもとへ向かい、飼い葉桶に寝ていた御子を見つけ、喜びにあふれた様子が記されています。

 主の栄光に照らされると人は力が出てきます。なぜなら神様は私たちの命の根源だからです。命の根源から、命のエネルギーを受けて「光の子」とされるのです。

 大切な点は、光のもとは神様にあるというところです。幼い子供たちは、自分の父親、母親こそが光の根源だと思っています。そう思うのは当然ですし、私もそう思いながら育ちました。でも、私たち人間は誰もが完全ではありません。母親も父親も完全からは程遠く、時にはウソをついたり、不用意に傷つく言葉を用いたり、喧嘩することもあります。

 幼子は、必然的にそのような姿を見ながら成長していくのですが、自分の親こそが光の根源だと思いすぎて育った子は、思春期になるにしたがって、いわゆる「反抗期」と呼ばれる現象が強くなるようです。親は光の根源ではないと理解してくるからです。

 人間は誰であろうと光の根源にはなれません。そのことを受け入れ、神様の光を沢山受けて、神様の光で輝くようにしましょう。その輝きを保つ人は、家族を幸いにし、子どもたちに祝福をもたらします。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と話されました。その光をたっぷりと受けて、豊かな実りをもたらす2022年を生きてまいりましょう。

2021年 12月

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」   

ルカによる福音書1編28節)

 

 クリスマス前の四週間をアドベントと言います。「到来」という意味です。私たちは神様に近づくことが出来ないので、神様が私たちに近づいてくださった。具体的には神の御子イエス・キリストが私たちの世界に誕生された、その誕生を待ち望む期間がアドベントです。

 神の御子の到来を初めて聞いた人が御子イエスの母となるマリアです。マリアはイスラエルガリラヤ地方と呼ばれる地域の、更にナザレと呼ばれた小さな村に住んでいました。マリアの前に、突然、神の使いガブリエルが現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げたのです。マリアは驚き、戸惑い、どうしたことかと思ったでしょう。更に天の使いは「あなたは身ごもって男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい」と伝えました。マリアは「どうしてそのようなことがあるでしょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。天の使いは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神にできないことは何一つない。」と伝えました。 

 マリアにとってみれば、とんでもないことでした。マリアはこれから夫となるヨセフと婚約していましたし、ささやかでも愛に満ちて、幸いな家庭をと望んでいたことでしょう。天使の御言葉はそのような幸いを打ち砕く危機にもつながりかねません。でもマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えました。天の使いは満足して天に去っていきました。

 なぜ天の使いは、マリアの所に現れたのでしょうか。聖書にはマリアについての情報は殆どなにもありません。顔かたちが優れていたとか、地域で評判の良く出来た人であったとか、神に対する信頼は誰よりも優れていたとか、そんな言葉は一切ありません。意図して、何も情報を記さなかったのかもしれないとさえ思います。

 でも、神様はマリアを選び、天の使いは「おめでとう、恵まれた方」と伝えました。上述したように天の使いの言葉はマリアにとって果たして本当にめでたいのかどうかわかりません。むしろ、「とんでもない!遠慮しておきます。」とか「ほかの方にお願いします!」と言いたくなるのではないでしょうか。でも、マリアは神様の「おめでとう」を受け入れました。「お言葉通り、この身になりますように」と答えました。

 マリアは神様のお働きが、これからの将来、自分や自分の家族、あるいは隣人にとっても必ず益となり、幸いになるであろうと信じたのだと思います。聖書には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と記されています。

 神様を信じるとは、過去のあのこと、このことで判断したり、振り回される生き方をするのではなく、将来に起こる幸いを信じて今を生きることです。そのような生き方は人を前向き、肯定的にします。マリアはそのような生き方を生きていたと思います。私たちも今年のクリスマス、そんなふうにして過ごしていきたいものです。

2021年 11月

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」   

 (詩編126編5節)

 

 詩編は全部で150の詩編で構成されています。その中の120編から134編までが「都に上る歌」と言われて、一般的には神殿があるエルサレムに向かって巡礼の旅をする人々が、これらの詩を歌いながら道々を歩いたであろうと考えられる詩編となります。

 私の長男は、大学3年になる春と4年になる春にスペインに行って、凡そ800キロの「サンチャゴ巡礼」を歩き通しました。あの頃の息子の目はキラキラしていました。今もですが。(笑)礼拝を献げるための巡礼の旅の習慣は古い時代からあったようです。

けれど、今月の詩編は巡礼といっても少し違います。この詩編の背景には戦争がありました。紀元前500年代にイスラエルは当時の大国であったバビロンとの戦いに敗れて、国が殆ど滅びてしまいます。生き残った人たちは捕虜としてバビロンに連行されていきました。バビロンの捕虜生活、難民生活は50年続きます。その後、歴史が大きく動きましてバビロンはペルシャに敗北し、思いがけずイスラエルの人々は自分達の国に帰ってもよろしいという帰還命令が出されたのです。

「涙と共に種を蒔く」とはそういったイスラエルの苦しい時代を表しているとも考えられますし、帰還した人々は荒れ果てた自分達の国、土地を見て涙したとも考えられます。生きて帰れた人々は、必死になって国の復興を願って働き神殿を建て、町を再建し、土地を耕しました。この様子を「涙と共に種を蒔く」としたのかもしれません。そのような苦労の末についに国が復興してくる、活気が戻って来る様子と共に、作物が収穫される。色々な意味を込めて「喜びの歌と共に刈り入れる」と綴られていると思うのです。

 10月の「聖書に親しむ会」で、ある方がこんな話をされました。「小さな子どもを抱えて、特に何人もの幼子を抱えて寝る暇がないほどに忙しくて、いつになったら楽になれるでしょうかと菊池先生に尋ねたら、子どもが大きくなったら楽になると思っているとしたら、それは間違いで、子どもたちが大きくなったら違う大変があってそれも楽ではありません。逆に子どもが幼い頃は楽しかったなぁって思いますよと言われて、今つくづくとそう思います」と笑いながら話してくださる方がいました。

 子育ては大変だと思うと大変です。楽だと思っても大変です。(笑)親が思ったような形で子どもが成長するわけではありません。でも幼い子供たちは色々な経験を重ねながら確かに大きくなっていって、その笑顔が、親や家族を励まし力付けているのも本当です。そんな子供たちが更に成長して、「喜びの歌と共に刈り入れて」いる姿を思いながら私たちは昨日も、今日も、明日も励んで参りましょう。