菊池牧師による聖書の言葉

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2020年 8月

「主はすぐ近くにおられます」   (フィリピの信徒への手紙4章5節)

 今月の聖書の御言葉は「主はすぐ近くにおられます」です。その前後にはこう記されています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

ここに「喜ぶこと」、「思い煩わないこと」、「感謝を込めて祈ること」の三つが記されています。

 先日の水曜日、ほし組さんだけの「キャンプ・パーティ」を行いました。私は美味しい所だけ参加して、ほし組さんと一緒にカレーライスを頂きました。食事の後に短い礼拝をしました。その時に、私が生まれた時の話をしました。一年で一番寒い1月に私は誕生しました。家の中で助産婦さんに助けられながら、母は私を産み、あまりに寒かったので、布にくるんでこたつに入れたそうです。何気ない話ですが、私はこれまで千回は聞いたかもしれません。それから、夫婦で名前をどう付けるのか悩みに悩んで名付けた、という話も合わせて聞きました。子ども心には、一体何を言っているのかと思っていましたが、親になって分かるのは、子どもの誕生にまつわる喜びの一コマ一コマを子どもに話したかったのだと分かるようになりました。 

 子どもの誕生は特別な喜びです。生まれた我が子が、泣いたり、笑ったり、寝返ったり、座ったりする一つ一つが親にとってはかけがえのない喜びです。その喜びを子どもと一緒に喜びたいので、どうしても生まれた時の話をしてしまうのだろうと思います。だから星組さんの皆さんよ、あなたがたが誕生した時に、家族全体の喜びはどれ程であったろうかと話をしました。

 大切なところは、自分が生まれて来た時の話をされても、子どもは上手に理解出来るかどうかわかりません。でも自分の親が目をキラキラさせて話をしてくれる。その話をするたびに喜んでいることがわかる、という所ではないでしょうか。子どもにとって親が喜んでいるだけで、自分の喜びとなり、そこに安心があり、平安があります。お母さん、お父さんがいつでもどんな時でも、自分と一緒にいてくれる。だから、ありがたい、とは思いません。むしろ当たり前です。親はいつも自分を愛してくれて、自分を大切にしてくれる、それは実に当たり前です。そこに疑う余地が少しも無い。そういう環境が与えられてこそ、子どもは毎日笑顔で元気であり、時にはいたずらや、わがままが言えると思います。

 どう育てようか、どう躾けようかと悩み、思い煩わないようにしましょう。良質な子育ては、毎日、自分が喜んで生きることです。子どもは親が立派な仕事をしているかどうかよりも、近くにいてくれることが喜びです。聖書には「主はすぐ近くにおられます」とあります。私たちが、どんな時にも喜べる理由は、いつでも神様が自分の側にいて下さり、親が子の存在を喜ぶように、神が自分自身の存在を喜んで下さっているところにあります。

 子育てをする、家族を守る、実際は容易ではありません。毎日休みなく、次から次へと課題が与えられ、家族も子どもも思うようには動いてくれないと思っていませんか。でもよく考えると家族がいるのは当たり前ではありません。それぞれに伴侶が与えられた時の喜びはどれほどであったでしょうか。子どもが誕生した時の喜びはどれ程であったでしょうか。その時を思い返すだけで、心と体が喜びに溢れるように、神様は私たちの誕生も、私たちの命も、私たちの家族も、私たちの社会をも守ろうとし下さっていることを忘れないにしましょう。どんな時も主は近くにおられます。

2020年 7月

 「今日を喜び祝い、喜び踊ろう」   (詩編118編24節)

 今月の御言葉は「今日を喜び祝い、喜び踊ろう」です。短い御言葉ですが、とても良い御言葉です。

 ある本に、英語と日本語の表現の違いについてこんな説明がありました。何事においても凡そ80%だと英語では「エクセレント(大変素晴らしい)」と言うが、日本語では「まずまず」で、60%だと「ベリーグット(とても良い)で、日本語では「母屋に火がついたようだ(大変だ!)」となり、40%では「グット(良い)」、日本語では「こりゃだめだ」、20%だと「ファイン(まずまず)」、日本語では「どこで首をくくろうか」となるそうです。

 日本人の特徴の一つとして、内向的とか遠慮がちと言われます。勿論、それが悪いわけではありません。言い換えれば「奥ゆかしい」とか「慎み深い」で、日本人の特性を良く表しれる言葉かもしれません。私自身も、完全に「インドア派」ですし極めて内向的です。人前で話しをするなんて、とんでもないと思って過ごしていました。

 でも、そんな私が変えられたのは聖書を読んで、キリスト教と出会い、どんな自分自身であっても神様の愛から漏れるようなことはない、と確信したからでした。

 内向的な人の特徴は、周りをとても気にするという点にあります。自分と人と比較し、比べながら人と違う所が気になります。「気になる」という言葉は「気に入らない」とほぼ一緒です。なによりも、いつまでも、どこまでも「自分」が気になります。つまり自分が気に入らないのです。自分が気に入らないと自分に自信が持てませんから、いつの間にか内向的な生き方になってしまいます。繰り返しますが内向的な生き方が悪いのではありません。でも自信を持てない自分がいるとしたら、それは少し残念ではないでしょうか。

 自信を持つにはどうするのか、人を気にしないことです。例えば、幼稚園では「子育て」についての本が沢山あります。貸し出してますから皆さんも読んでおられるでしょう。困ったときなど、良いヒントが沢山記されていて役に立つ本ばかりです。でも子育てについての本は、毎年何十冊も発行されていることから分かるように、完全な子育てや、これこそが正しいと言える本はありません。考えてみれば当たり前で、親も子も誰にも代えられない状況、個性、環境でもって生活しているわけですから、本に記された通りにはいきません。

 ですから、自分には自分ならではの子育てがあり、自分ならではの家庭があり、それで良いと思えるなら、なによりではないでしょうか。性格も内向きでも、外向きでも、本当はどちらでも良いのです。

 大切なことは何かというと、内向きな人は、そのような自分の性格を喜んでいますか?ということです。外向きな人は、そういう自分を喜んでいますか?ということです。性格を直すのは大変です。でも、その性格を自分が受け入れられるなら直す必要はありません。変えるのは、性格ではなく自分自身です。

 自分で自分を受け入れると、「今日を喜び祝い、喜び踊る」気持ちが沸き上がるはずです。そして、自分が自分を受け入れるよりも早く、神様が自分を受け入れて下さっていると分かる時は、もっと大きな喜びが与えられることでしょう。

 皆さん、「今日を喜び祝い」ましょう。「喜び踊る」思いを持って、過ごしましょう。あなたの笑顔と優しい思いが、子どもが健やかに育つ、最高の秘訣だと私は思います。

 

2020年 6月

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのです。」 

(ペトロの手紙一4章10節)

 

 イエス様が話されたたとえ話に「『タラントン』のたとえ」という話があります。ある人が旅に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けました。それぞれの力に応じて一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけました。早速、五タラントン預かった人は、それで商売をしてほかに五タラントンもうけました。二タラントン預かった人も、他に二タラントンもうけました。一タラントン預かった人は、出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠しておきました。かなりの日がたってから、主人が帰って来て僕(しもべ)たちと清算をしました。五タラントン預かった人は、進み出て「ご主人様、五タラントン預かりましたが、ほかに五タラントンもうけました。」と言いました。主人は「良い忠実な僕(しもべ)だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と告げました。次に、二タラントン預かった人も進み出て「ご主人様、二タラントンを預かりましが、ほかに二タラントンをもうけました」主人は同じように「良い忠実な僕(しもべ)だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と話しました。一タラントンを預かった者も進み出て主人に告げました。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさないところからかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧下さい。これがあなたのお金です。」と告げました。主人はその言葉に怒って「怠け者の悪い僕(しもべ)だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさないところからかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。利息付で返してもらえたのに。」といって一タラントンを取り上げた、というのです。

 皆さん、タラントンはお金の単位です、一タラントンの金額はなんと!凡そ6千日分の給料に匹敵します。仮に一日一万円とすれば6千万円!です。二タラントンはなんと1億2千万円!五タラントンだと、3億円です!ですから少しのものではありません。でも、たとえ話ですから少し大げさに話したのかもしれません。このタラントンは、後になって英語のタレントとなりました。芸能人のことをタレントと言ったりしますが、才能、能力という意味があります。難しい言葉では「賜物(たまもの)」です。

 今月のみ言葉は「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのです。」です。私たちはそれぞれに、神様から賜物(才能、能力)を授かっています。全く違う自分ならではの賜物です。その量や質についてもそれぞれですが、大切なことは、量や質の大きさではありません。自分に与えられている賜物を十分に生かしているのかが問われていると思います。

 子育てに大切なことは沢山ありますが、一つは比べないということです。幼稚園を過ぎて、小学校に通い、更に進級、進学、そして就職、結婚する中で、大人になればなるほどに、私たちは、いつの間にか比べられて育てられて、比べるのが当たり前であるかのような感覚になっています。でも、私たち自身比べられるのは辛かったのではないでしょうか。だから比べないことが大切です。でも、もっと大切なことがあって、自分を喜ぶことです。自分に与えられた賜物を喜び、また、その賜物を生かし、嬉しいな、生きるって楽しいな、と子どもの前で家族の中で、喜び笑顔で生きていきましょう。不安と不満で一杯の社会の中で、喜び、笑顔で生きている人は、家族を友人を周囲の人々を幸せにする人です。私たちはそのようにして生きてまいりましょう。素敵な子育てを楽しんで参りましょう。

2020年 5月

「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」  

 (イザヤ書43章1節)

 

 聖書の最初は「創世記」です。その最初の言葉は「初めに、神は天地を創造された」という御言葉です。地は、私たちが住んでいる地上世界、天は、空というよりは宇宙全体と考えれば良いでしょう。誰が見ていたの?と質問したくなりますが(笑)わたしも答えられません。歴史的、時間的な意味として考えてみても答えは出て来ません。大切なところは、天と地の造り主は、神であるというところです。

 神はどのようにして天地を造られたかというと、七日かけて造られました。一日目、「光あれ」と言われました。光がありました。二日目、「水の中に大空あれ」と言われました。すると海と空が出来上がりました。三日目は「天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ」と言われました。海と陸が出来上がりました。四日目は太陽、月、星を造られて昼と夜と分けられました。五日目は海には魚、陸に動物、空には鳥を創造されました。そして、六日目に、土の塵で人を造られました。聖書の文字であるヘブライ語では土をADAMA(アダマ)と言います。アダマからADAMU(アダム・人間)が造られたわけです。

 全てを造り上げられた神は七日目に休まれました。神様が休まれたのですから、私たち人間も休みはとても大切です。

 神様は、アダムをエデンの園に住まわせました。アダムは耕し、園を守るようにされました。その後、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を人のところへ持って来て、人がそれぞれどう呼ぶかを見ておられた。」と記されています。

 つまり、私たちの世界の獣、鳥に名前を付けたのは人間です。昔、先輩牧師から「名前を付けるということは、責任が伴う」という話しを聞いて、とても納得したことを覚えています。

 私たち人間は、この世の全ての物に名前を付けます。名前が無い動物、植物があったとしたら新発見と言われ、必ず何かの名前が付けられます。名前を付ける側には責任があると私も思います。

 子どもが生まれると必ず名前を付けます。お子さんが生まれた時に、喜びと共にどんな名前にしようかと悩まれた方も多いでしょう。悩んだことさえも良い思い出となりますが、名前を付けられた側に対して、名前を付けた側には責任が伴います。つまり親は子に対して責任があります。家族として受け入れた証拠です。ペットにも必ず名前を付けます。ただの犬や猫ではなく、名前を付けたら家族の一員です。

 どのような責任かというと、愛情をもって関わりを持ち、育てる責任です。

大切なことは、名前を付けた側が付けられた側を支配出来るわけではありません。親が子を支配出来るわけではありません。昔のキリスト教の考え方の中に、自然や動物を人が支配出来るという考え方がありました。人が全ての物に名前を付けたからという理由です。それ故に、西欧社会は、文化の向上と共に自然、環境が破壊されるという悲劇が生まれました。今ではむしろ、日本以上に自然、環境に気を使っていると言えます。人は、動物、自然と縦の関係ではなく、共に神様に造られた横の関係であると気が付いて来たからです。そのように本来親も子も縦関係ではなく、横関係であると私は思っています。

 よく「躾(しつけ)が大事」という言葉を聞きますが、躾けるよりは、横関係の中で、愛情をもって名前を呼びつつ、関わりを持っていきたいものです。神様は、ついに神と人との縦関係を止められようとして、主イエスという方を私たちの世界に誕生させられました。主イエスは神の子でありながら、人々と共に歩まれ、人々と共に過ごされ、神の愛の姿を示してくださいました。私たちも、これから少しずつ聖書に触れながら、神様の愛を感じて生きていきたいと願っています。愛の子育てを目指して励んでいきましょう。皆様、自粛疲れが出ませんようにとお祈りしております。

2020年 4月

「あなたがたは神様に愛されている子どもです。」

              エフェソの信徒への手紙5章1節

 

 毎月発行される「園だより」に聖書の御言葉から記しています。今月の箇所は「あなたがたは神様に愛されている子どもです」という聖書の御言葉です。

 コロナウィルスの為に、家で過ごす時間が多くなりました。でも良い事もあって、先日録画していた「リメンバー・ミー」というディズニー映画をみました。主人公は音楽を愛するミゲルという少年です。ミゲルはミュージシャンを夢見ていましたが、なぜか家族から大反対を受けます。その理由は、どうもミュージシャンであったヒイヒイおじいちゃんに理由があることが分かってきます。そんな中、ミゲルはひょんなことから「死者の国」に入り込んでしまい、びっくりしますが、孫の孫として、ヒイヒイおじいちゃんに会いに行って、最後は色んな秘密が明らかになっていく!というとっても素敵な映画でした。あまり細かく記すとネタばれになってしまいそうです。でも、もうちょっとだけ書きますが(笑)、一年に一度だけ、死者が家族のもとに帰れる日がありました。でも帰れる死者と帰れない死者がいました。その違いは家に自分の写真が飾ってあるか、飾ってないかという点でした。家族や友人のところに一枚も自分の写真が無いと生者の世界に帰れないのです。更には、生者の中に、自分を覚えている人が一人もいなくなると、死者は死者の国からも消えていなくなってしまいます。消えた死者はどこにいくのか誰もわかりません。ちょっと悲しい場面もありました。ヒイヒイじいちゃんも危うく消えそうになるのですが、ミゲルの大活躍によって、消えずにすんで、家族もミゲルも大喜びとなり、みんなが嬉しい。さすがにディズニー映画です。

この映画は日本のお盆の風習ととても似ていると感じました。更に、キリスト教が告げる家族の愛を強く感じていました。

改めて、「あなたがたは神様に愛されている子どもです」とあります。子どもの特徴は沢山ありますが、なんといっても子どもは諦めません。寝返りからお座り、ハイハイ、つかまり立ち、そしてついには立ち上がり、歩き出す。子どもが歩き出すまで一体何回転ぶことでしょうか。10回、20回では利かないでしょう。でも、回数ではなく諦めずに立ち上がり、歩き出そうとします。そこに迷いはありません。

不思議な事に、一回の失敗、二回の失敗、三回も失敗すれば、大人の私たちは諦めてしまうのではないでしょうか。もうダメだ、自分は出来ない、時間が無い、能力の問題、といったように様々な理由を付けながら諦めるのは正しいことのようにして生きていたりします。

子どもはなぜ諦めないのでしょうか。私は、本能とか、生きる力という点もあると思いますが、子どもの心の中は、「100%自分は愛されている感」で埋め尽くされているからだと思います。そこに少しも疑いなく、親も家族も自分を愛してくれているという徹底的な安心感と幸福感で埋め尽くされているからだと思うのです。そのような心を持っている人は、決して自分を諦めません。何回失敗しても、それがどうした!というように、次を目指す力が出て来るのだと思います。「神様に愛されている子ども」の特徴は、どんな時も自分は愛されていると自信を持って歩める子ども、ということです。

みなさん、もし何かを諦めていたら、自分は神様の子どもと心を入れなおして、前を向いて歩んで参りましょう。社会状況がこのような中にあって、誰もが下を向き、人と離れ、心が孤独になりそうな時期にあって尚、神様の子どもとしての役割は大きいと思います。あなたがこの社会に元気と希望を与える人になれます。だって、あなたも神様に愛されている子ども、ですから。

2020年 3がつ

わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」

               エフェソの信徒への手紙5章20節

 シェイクスピアの翻訳家として知られる小田島雄志という方がいます。この方が日本経済新聞の「私の履歴書」という欄にこんな言葉を記したそうです。「人生の楽しみは、喜怒哀楽の総量である」。なんだか素敵な言葉だと思います。小田島さんが記した意味は、人生は楽しい方が良いに決まっているけれど、楽しいことばかりではなく、怒りもあり、悲しみもあり、喜びもあり、色々あって、それらの物を皆集めて人の人生であって、喜びや楽しみはプラスで、怒りや悲しみはマイナスという訳でもなく、全てのものを足し算して、その総量でもって「人生の楽しみ」という、そんな意味だと思います。

 

 私たちは楽しいこと、嬉しいことはプラス、悲しみ、怒りはマイナスと考えてしまいますが、どうも、それは違うようです。全部を足し算した総量が「人生の楽しみ」だというのです。

 

 今月の御言葉を記したパウロという人は、この文章を記した時、諸説ありますが、ローマの牢獄に入れられていたと考えられています。パウロは主イエス・キリストの福音を、人生をかけて宣べ伝え、特にユダヤ人以外の異邦人に熱心に宣べ伝えました。けれど、宣教活動によって自分の身に迫害や、困難が起こることも良く知っていたと思います。実際に、パウロはこの手紙を記した数年後に、暴君ネロの手によって処刑されたと言われます。自分が置かれている状況は最悪の状況だったと言えるでしょう。

 

 けれど、パウロは獄の中で、命が失われるリスクを日々感じつつも、エフェソの教会に宛てて手紙として文章を残し、迫害の中にあっても共同体として一つになり、感謝して与えられている命を生きるようにと一生懸命に記しました。

 「神に感謝しなさい」とは、何でもありがたがって生きなさいという意味とは違います。小田島雄二さんが記したように、喜怒哀楽のある人生、喜びのみならず、悲しみや怒りをも全てを含めて神様の御計画があると信じて受け止め、その先のまだ見えない将来に夢を託し、いつの日か、全てが自分の宝物となる時が与えられると希望を持って生きることなのだと思います。パウロ自身最後までそのような希望に生きた人であったと思います。

 

 今、私たちの国は新型コロナ・ウィルスの拡大に歯止めをかけるために必死になっています。大塚平安教会は、凡そ2週間の行事を中止としました。私が通っているスポーツジムも3日より2週間ほどお休みとなりました。高校生の娘の学校もいきなり休校となりました。けれど不思議なことに、保育園は休園にならず、学童保育には更に子ども達が増えているチグハグな状況が生まれています。多くの会社員は、以前と変わらず満員電車で通勤しています。

 

 このようなことが何を生み出すかというと、人は自分が置かれている状況から物事を見ますから、そこから物事を判断し、不安になったり、不満を募らせたり、怒ったりという現象が、あらゆる地域で生まれているのではないでしょうか。ウィルスの拡大を更に上回るスピードで、人の心の中に不安が増加し、渦巻いているとも言えるでしょう。不安は増幅し、デマかもしれないと思いつつもトイレットペーパーとかティッシュを買いに行ってしまうのです。でもこんな時こそ、全ての事柄のその先に確かな神の御計画があり、今の出来事さえも将来の宝物となる日が来ると信じて、全てを足し算していきながら、不安ではなく希望を持って生きていきたいものです。

2020年 2月

「このように主によってしっかりと立ちなさい。」 

フィリピの信徒への手紙4章1節

 

 先月59歳になりました。もうすぐ60歳か、と色々と思います。岩手県の故郷から小学校の同窓会のお知らせがあり、「還暦だから会おう」ということで盛り上がっていたようです。幼い頃からの親友に電話して今年は出られそうにないと告げたところ、同級生の皆は定年後の仕事や、孫の話しも多いようでした。いつの間にか、「孫!」と驚きましたが、きっとそんな年齢なのだと思います。私の母は、46歳で孫がいて、今は曾孫が中学生です。

 ということで、私も楽しい60代を生きるためにどうしようか、と考えて60代は何よりも体力と健康ではないかと思い、スポーツジムに通うようにしました。ジムに通ってギコギコと鳴る体を動かしていたら、知っている方がいて「先生~、細~」、「先生~、白~」と声をかけて下さいました。苦笑いです。

 ところで「主によってしっかりと立ちなさい」とあります。しっかりと立つためには足腰を鍛える必要があります。体の筋肉は下半身が凡そ7割だと言われます。下半身を鍛えるとかなりしっかりとなってくるでしょう。けれど、もちろん聖書の御言葉ですから、体を鍛えなさいと言っているわけではありません。むしろ、「しっかりと立つ」ための心構えについて告げているわけです。

 心構えとして必要なのは「主によって」という言葉です。主とはイエス・キリストです。この方は、神の子でありながら神様のままでいることを「良し」とされずに、人の姿をとって私たちの世界に誕生されました。それがクリスマスの出来事です。人の姿となられた意味は、人の苦労や辛さも全てその身に引き受けられたということです。一人ひとりの思いをしっかりと共感して下さったということです。

今月の御言葉は、全体としては「神が人となられ、人と共に歩まれたように、あなたも主によってしっかりと立ちなさい。」という意味でしょう。

 ある昔の偉い牧師が説教でこう言ったそうです。「世の中でもっとも扱いにくいのは、「弱さ」でないかと思う。弱い人とは、大事にしすぎるとつけあがるし、厳しすぎるとひねくれるし、甘やかすとまとわりついてくるというように、手に負えない。」と言ったそうです。大分上から目線ではないかと思いますが、偉い先生ならではのお言葉だと思います。

 けれど子育てをしている年代として考えると、うちの子もそうだな~と思われるかもしれません。それは当然です。子どもというのは、まだしっかりと立てないから親が必要であり、しっかりと独り立ちするまでの時間を子育てと呼ぶのでしょう。その間、つけあがったり、ひねくれたり、まとわりついたり、つまり人に依存しながら、何度も何度もそういう弱さ、不完全さを繰り返しながら、トレーニングによって少しずつ体の筋肉が鍛えられていくように、心の筋肉が鍛えられて、次第にしっかりと立ち上がっていくのだと思います。独り立ちの時期はそれぞれ違います。法律上では20歳が子どもと大人の境界線ですが、人によってもっと前の人も、もっと後の人もいるでしょう。ですからそこで求められるのは親もまた「しっかりと立ち続ける」必要があるということです。

 何も子育てに限る訳でもなく、人として、自分の人生をより豊かに生きるためにも誰かに依存するようにして生きるのではなく、逆に人を愛して生きていきたいものです。依存するなら「主なる神」にのみ、だから他の全てのものからは解放されて、自分ならではの確かな人生を歩んでいきたいものです。体の健康も、心の健康もどちらも大切にしながら、寒い冬の時期を乗り越えて過ごして参りましょう。