菊池牧師による聖書の言葉

文章はドレーパー記念幼稚園で発行する園だよりからの転載

2021年 5月

「神は愛です。」   (ヨハネの手紙一 4章16節)

 最近、エッセーのような小説を読みました。その中にフランスに住んでいるエッセイストの女性が登場します。フランス人の彼がいて、毎日のように「愛している」と言われていました。でも日本人の彼女は、日本人は滅多なことでは「愛している」とは言わないのに、と少々ウンザリ。あることがきっかけとなり、決意して彼と別れたことにしようと、黙って日本に帰って来てしまいました。それで全てが終わったと思っていました。

 それから5年後、彼女は「日本人は滅多なことでは愛しているとはいわない」といった内容のエッセーを本に載せます。すると、フランス人の彼から連絡が入ります。黙って帰国した彼女を追って日本まで来て、語学教師をしながら彼女を長く探し続けていたことが判明するのです。彼はエッセーを読み、ペンネームで名前は違うけれど、彼女だと確信して、出版社に連絡を取ってついに再会の運びとなるのです。

フランスと日本、大分距離もあり、言葉の感覚も違いますが、「愛」が本物なら心の距離がグン!と近くなり心の絆がつながるのでしょう。

 コロナ禍にあって、緊急事態宣言が延長されると報道されています。今年の1月、正月過ぎに緊急事態宣言が出され、それが3月末まで続き、終わって、ホッとしたのもつかの間、4月末からまた緊急事態宣言となりました。私達の地域はギリギリ宣言下ではありませんが、厳しい状況は少しも変わりません。GW中に、江の島に人が沢山集まり、心配な状況との報道もありました。緊急事態宣言慣れとか、コロナ疲れとか、とも言われています。問題点も沢山あると思いますが、行政と私達国民との距離の問題があるのではないかと、私は思っています。行政が本当に「愛」をもって、私達のことを考えているのだろうか?考えていないのではないのか?と思うと心の距離がどうしても遠くなるのです。どんなに綺麗な言葉を並べられても、本当には愛していないのでは?と思える人の言葉は、心に響いてはきません。ましてや、最初から愛を感じない言葉は全く持って力が無いのです。

 

 今月の聖書の御言葉は「神は愛です」です。短いです。二千頁もある聖書の中の五文字です。この言葉に聖書の内容が詰まっている、と言われるほどに大切な御言葉です。ですからそのままを受け止める方もいると思いますが、「神は愛です」だからどうした?となる方も多いと思います。流石にこの言葉だけでは、神様の愛の正体が響いて来ないと感じるからだと思います。

 この御言葉は「ヨハネの手紙」という箇所に記されています。ヨハネはイエス様の弟子で、イエス様から最も愛された弟子でした。レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」ではイエス様のすぐ横に描かれています。迫害を受けながらも生き残り、生涯を主イエスの福音宣教の為に尽くした人でした。自分の命をかけても惜しくないと思える程に、イエス様の愛がヨハネの心を捕えていたのでしょう。 

 イエス様の愛を伝えずにはおられないとの思いでもって、ヨハネは「神は愛です」と記したと思います。「愛」は文字を越えて、人の心と、人の生き方に良い影響を与えます。「愛」は言葉を越えて、人を生かし、希望を与え続けます。神様の愛を受け入れ、家族にその愛を分け与えながら生きていけたらどんなに素敵でしょうか。

2021年 4月

「わたしは良い羊飼いである」   (ヨハネによる福音書10章11節)

 「わたしは良い羊飼いである。」この御言葉は、イエス様が周りで聞いていた人々に向けてお話されていた時に用いた御言葉です。その意味は「あなたがたを良く知っている」ということです。

 私の家族は子どもが三人います。長男は25歳、流暢な言葉を用いて人を楽しませることが出来ますが、人見知りが激しく、体もそれほど強くないので案外内向的です。次男は21歳、言葉遣いは上手ではありませんが、誰とでもすぐ友達になれる特技を持っています。11年前に綾瀬に引っ越して来た時5年生でしたが、登校日初日に帰って来てすぐ「友達の家に遊びに行って来る」と言って、嬉しそうに出て行きました。親のほうが驚きました。三番目は長女です。大学生になりました。気難しく、生意気な言葉ばかり使います。でも本当は自信がなく、恐ろしく内向的で唯一の友達は飼っている猫です。同じ性格の超内向的な猫は、娘だけが頼りの日々を送っています。

 子どもたちが成長して改めて思いますが、兄弟でも、それぞれの性格、個性は全く違います。人の性格は、1,生まれ持ってのもの 2,生まれた社会から受ける影響 3,親や家族から受ける影響、等によって、出来上がると言われます。でも、同じ家、同じ親、同じ環境で育っても、性格や考え方が全く違うところを思うと、生まれ持ってのものが大きいのかもしれません。

 それぞれ個性を持って生れて来た子ども達を、画一的に育てることは出来ません。時々「子ども達をみんな同じように育てられない」と相談を受けたりしますが、むしろ当然なのではないでしょうか。

大切なのは、その子の性格や、考え方に添った子育てかもしれません。

 それが出来るのは、誰でもなく、親である私達です。子ども達のことを、誰よりも良く知っています。生まれた時から、成長する中で起こったあの事、この事、全てを知っているからこそ個性を大切にする子育てが出来るのです。

 良い羊飼いと言われるためには、羊が何匹いるとしてもその顔を見ただけで、違いが分かり、羊の特徴を知り、一匹たりとも見落とすことがない集中力が求められるでしょう。夜も寝ずの番をして、野生の熊や狼、泥棒から守る体力も必要です。更には羊からだけでなく、羊の持ち主との信頼関係力も求められます。それらの全てを兼ね備えてこそ「良い羊飼い」と言われるようになります。

 イエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われました。イエス様が羊飼いなら、私達は飼われている羊です。主イエスは、私達一人一人の性格、思考、悩み、不安、全てをご存知です。これまで誰にも話したことの無い、あの事、この事さえご存知です。良く知っているからこそ、「良い羊飼い」として共にいて下さいます。

この方の神の愛に包まれながら、これからの一年、私たちは幼稚園で一緒に過ごしていきましょう。子ども達が見せてくれる確かな成長と共に、私達も豊かに成長していきましょう。2021年の一年間も、宜しくお願いします。

2021年 3月

「わたしは必ずあなたと共にいる。」   (出エジプト記3章12節)

 

 聖書の最初は「創世記」が記されています。二番目が「出エジプト記」です。そこに登場するのがモーセという人です。モーセは何者かというと、神様に見出されて、エジプトで奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの凡そ60万人の民を救い出し、元々、自分達の土地であった場所を目指して40年間荒野を進んだ指導者として生きた人です。イスラエルの英雄の一人です。

 けれど、モーセは当初、その働きを嫌がりました。ミディアンという田舎の地方に住み、家族と共に小さな幸いを過ごしていたモーセでしたが、主なる神様がモーセに声をかけます。「モーセよ、わたしは、エジプトで苦しむイスラエルの人々の叫びを聞いた。あなたはエジプトにいるイスラエルの同胞である仲間を助け出しなさい」でも、モーセは驚き、怯んで、「どうして、わたしが」と神様の御言葉を拒み続けます。何度も拒むのですが、その度に、神様はモーセを励まし、「わたしは必ずあなたと共にいる」と力付けるのです。結局、熱意に負けるようにしてモーセは決心し、イスラエルの民を救い出すことになります。迫力のある箇所ですから、時間のある方も、無い方も是非読んでいただければと願います。

 

 さて、私たちの人生にも、モーセと共におられた神様が必ず一緒におられます。私たちが生まれた時、必ずいるのはお母さん、お父さん、家族です。家族の愛情に包まれて、私たちは確かな成長を遂げて来ました。けれど、ある時期に、私たちは親から離れ自分のパートナーを求めて社会に出ます。社会に出るのは自活、自立の為でもありますが、それ以上に、自分の人生を共に歩んでくれるパートナーを求めて社会に出る、と言っても過言ではないでしょう。

 幸いにもパートナーと巡り合い、めでたく結婚、更に幸いなことに、子どもを授かり、家族が増えて、時にはパートナー以上に子どもに夢中になったりしながら、確かな家庭を築こうとします。

 けれど、気が付くと、子どもは成長し家から出ていこうとするし、元気だったはずの両親は年老いて、自分達が世話する番になるのです。更に、孫と楽しく過ごしているうちに、あっちこっち体にほころびが出て来て、ついには子どもや孫の世話になりながら、あっという間に神様のもとへと旅立つ準備となります。

 

 私たちの人生で確かなものは何でしょうか。幼い時は、父、母はいつも、どんな時も一緒にいてくれる人でした。幼子からすれば世界一の父、母です。ところが、成長すると、選んだパートナーこそ自分と一緒に歩む相手であると決意して結婚し、家庭を築く。その家庭こそ、生涯続くものと思いながら生きるのです。けれど、ある時に気が付くのです。父も、母も、パートナーも、子どもも、自分の人生といつもずっと一緒にいるわけではないということに。

 

 今、認知症の母を抱え、子ども達が巣だって行こうとする姿を見ながら、私は改めてそのことを思います。

そして、自分の生涯を共に歩んで下さるのは、モーセと共にいて下さった神であり、主イエス・キリストを通して示された神様、この方だけが、「わたしはあなたと共にいる」と告げて下さり、どんな時も一緒にいて下さる方であることをつくづく思います。この方の支えがあってこそ、親にも、パートナーにも、子どもにも、どんな時にも、どんな状況でも、確かな愛を与え続けられるのだと私は思っています。

2021年 2月

「愛はすべてを完成させるきずなです。」   

      (コロサイの信徒への手紙3章14節)

 

 先日、食事をしていた時、家内が話しかけてきました。スマホでユーチューブか何かを見ていたようで、子育てについての話を聞いていたようです。

「さっき、スマホで見たんだけど、子どもには、愛情をもって育てましょう、といった漠然とした愛情論なんかより、鼻の先に人参をぶら下げるようにして、やる気をださせた方が伸びるって話していたわよ。」

「なるほど、宿題を先にやったら、ゲームをしていいよって感じなのかな?」

「そうそう、具体的に鼻の先にぶら下げると効果あるんじゃない。」

「そうかも!でも、僕のところに相談に来たりする人は、『そんなことは、とっくの昔に試してみたけど、全くダメなんですけど!』という人が多いよ。」と答えて、二人で笑ってしまいました。心当たりのある方は、どなたもいないと思いますが。(笑)

 

 今月の聖書の御言葉は「愛はすべてを完成させるきずなです」とあります。絆とは「関係」という言葉に言い換えられます。子育てに限るわけでもありませんが、人が楽しく生きていくために必要なのは「良い関係」です。子どもに対する良い関係、夫や妻に対する良い関係、家族、友達に対する良い関係、コロナ禍の中で、家族が一緒に過ごす時間が多くなったご家庭も多いと思います。

 それは悪い事ではないはずですが、案外、それが楽しいだけでもなく、むしろ疲れたり、なんだか腹がたったり、いらだったりすることも多いかもしれません。そんな話を最近よく聞きます。なぜそうなるのでしょうか。

 苛立ったりする原因は、相手の言動にあります。気になる言葉を聞く、気になる行動をする。気になることは大抵の場合「気に入らない」ことです。子どもが親の話を聞かないとか、夫が、妻が、思ったように動かないとか、気に入らないことの連発が積もって来て、更に苛立つ。既に鼻に人参をぶら下げるような小手先の技は使いきり、こちらも手の内が無くなってくると疲れもたまる、というものです。そして、「関係」が悪くなってきていると思ったらご用心です。

 

 関係の修復に必要なのは、その人が何を言っているのか、何をやっているのかを気にするのではなく、その人の「存在」を喜ぶことです。愛する二人が結婚しようとする時、二人の間には強い絆があります。互いの「存在」を確かめ合い、共に喜んでいるからです。この絆は生涯変わることがないと信じて結婚したはずです。ところが人はいつの間にか、相手の行動や、言葉に引っ張られて、「存在」を喜ぶ思いが減ってきてしまう。生まれてきた幼子は、一切何も出来ません。でも、まさにその「存在」を誰もが喜ぶでしょう。ところが、大きくなればなるほど、何をしているのか、何を話すのか、がとても気になるのです。そして「存在」を慈しむ思いが減ってきたりするのです。だから、大切なのは、何をしているのかではなく、「存在」を喜んでみましょう。「そのままのあなたが本当に素晴らしい」そう思えてくると、生きるのが楽しくなります。

 聖書が伝える愛の姿は「ギブ&テイク」ではなく、「ギブ&ギブ」です。皆さん、ギブ&ギブで、元気に楽しく、コロナ禍の辛い世の中を、楽しんで過ごして行きましょう。

 

2021年 1月

「神は愛です。」   (ヨハネの手紙Ⅰ 4章16節)

 

 新年、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 今年も、楽しんで行きましょう、と思っていましたが、コロナ禍で緊急事態宣言が出され、教会は1月10日の礼拝より、2月7日までの5回、礼拝を休むことになりました。礼拝には高齢者も多く出席され、礼拝があると無理しても来られる方もおられるかもしれません。思い切って「休む」ことにしました。

 でも、その5週間、教会の皆さんと繋がり続けていく方法を考え、思いついたのは、「大塚平安教会ウーバー週報」です。週報に説教の原稿を加えて、色んな情報も入れて作成して、教会の皆さんに配ったら楽しいかなと思い、早速作成して、今あちこちに配っています。(「ウーバー週報」欲しい方は教会にあります。)

 

 その説教原稿にも記しましたが、なぜコロナウィルスが怖いのかというと、感染して究極の場合には死んでしまうかもしれないからです。この病気を通して「死」を見る思いがするからです。知らない間に人に感染させてしまうかもしれないとか、密を避けなければならないとか、色んな事が言われていますが、「感染したら死ぬかもしれませんよ」と言われた方が人は自粛し、自らを規制するかもしれません。

 薬もなく、医療崩壊寸前と言われている状況では、尚更コロナに感染したとなると、「死」を覚悟しなければならないかもしれません。風邪やインフルエンザも、熱が出て大変ですが、多くの場合は死を覚悟するほどではありません。薬もあり、大丈夫と思っているので非常事態にはなりません。

この状態は、例えば戦争とか大規模災害とか大飢饉に似ているとも言えます。非常事態が宣言されてもおかしくはないのです。

 

 今月の聖書の御言葉は「神は愛です」です。聖書の中で最も短く、しかも適確に神様の性質、性格を表している御言葉だと思います。こんな非常事態に神様は何もしないのかと思われるかもしれませんが、確かに神様が直接現れて解決して下さることは無いかもしれません。でも、神様は、神様の御言葉を通して、私たちに働きかけておられます。「愛」を大切にしなさい。「愛」によって生きていきなさい。「愛は全てを完成させるきずなです」という御言葉も聖書にあります。

 きずなとは繋がりです。自粛が求められ、会食や社会活動が規制されるような時ですから、必要な関わりや交わりも制限されます。活動が停滞すると活力も失いがちになります。体や心に変調をきたすこともあります。人が健全に生きていくためには人と人との愛のあるつながりがどうしても必要なのです。夫婦間や親子間で喧嘩することがあります。喧嘩しても互いに話し合えるのであれば心配ないかと思いますが、何も会話が無い、という状態は良くありません。つながりが無くなるからです。そこに愛が消えてしまうからです。

 コロナ禍の中にあっても、私たちはつながりを大切にしてきましょう。子どもが豊かに健全に成長するためにも人と人のつながりがどんなに大切か皆さんも感じておられるでしょう。人と人とのつながりをしっかり守っていくためには、神様と人とのつながりが大切です。神様から愛のエネルギーをしっかりと頂いて、状況に窮して、落ち込んでいかないで、状況をしっかりと受け止めつつ、更に愛を持って元気に過ごしてまいりましょう。皆さん、今年も宜しくお願いします。

 

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2020年 12月

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」 (マタイによる福音書2章10節)

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」この星とはどんな星でしょうか。一つは占星術の学者たちと御子イエスを出会わせた星ということです。占星術の学者とは占い師とか魔術師とも言われますが、現代で言えば、天文学者気象予報士、薬剤師、自然科学者といった当時としては最先端の知識を持った人たちだったと思います。そんな彼らが夜空を見ていると、彼らの知識では考えられない特別な星を見つけたのでしょう。星を調べたところ、ユダヤの王として誕生される方の「印」と分かり、喜びに溢れて東の国から12日間の旅をして御子イエスの所へやって来たというのです。

 星は幼子のいる場所の上に止まり、家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。

 黄金、乳香、没薬は、当時、最高に価値のあるものでした。学者たちは心からの礼拝を献げました。

 私は学生の頃、A山学院大学の理工学部の図書館でアルバイトをしていました。蔵書の80%以上は、理工系の図書であり、文学書、語学書、一般書は残りの18.5%位で、キリスト教関係の書籍は多く見積もって残り1.5%位でした。その書籍を使用するのは、私と宗教主任の先生だけでした。毎週月、水、金の昼には礼拝がありました。割合に多くの学生が礼拝に出席していましたが、むしろ先生方が熱心に礼拝に出席しているのが印象的でした。文学部の礼拝よりも出席者が多いのではないかと思ったりしました。私の妻は、長嶋で有名なR教大学です。そこでも毎週礼拝が執り行われていたそうですが、当時は牧師と数名の学生の礼拝だったと聞いています。

 理工系の教授と言えば、科学の最先端を研究している人という印象があります。でもそのような研究、学問をすればするほど、自分は「知らなければならない知識すらも知らない」と思うようになり、研究のその先に果てしない未知の世界があって、自分はほんの少ししか分かっていないと自覚するのかもしれません。そして、その先の先に、神様のような存在を感じてしまうのかもしれません。

 占星術の学者たちも、星に導かれて御子イエスと出会うために旅をしたのは、自分達の知識の遥か先にある大いなる方の存在を信じていたからではないでしょうか。

 私は、毎日聖書を読み、毎日祈り、毎日教会で過ごしていますが、いつのまにか神様について分かっているような感覚になり、どこかで神様と出会う感動を忘れているようにも思います。

 神様と出会う感動を改めて取り戻すのは、やはりクリスマスの時期なのです。父なる神が、私たちのために、私たちを愛する故に、神の御計画のうちに御子イエスを誕生させて下さった。そう思うと心が高ぶります。

 御子イエスのもとへ導く星は、私たちの人生の上にも光り輝いています。人生は人と人との出会いです。親と出会い、家族と出会い、友と出会い、仲間と出会い、伴侶と出会い、出会った一人一人との間で私たちは生きています。その出会いは、私たちを神との出会いへと促す星の導きだと思います。

 今、社会はコロナ禍で暗い時期を通過中ですが、このことをも通して、ずっと先におられる方が、御子イエスを、私たちの身近な方として誕生された。この奇跡の出来事を、感動を持って受け止めて、神の愛と出会えるクリスマスを過ごしていきたいと思うのです。

2020年 11月

「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」 

ヨハネによる福音書15章12節)

 

 先日、「やめるときも、すこやかなるときも」という小説を読みました。作者は窪三澄、これまで作品を読んだことのない作家でした。実際のところタイトルに惹かれての購入でした。いつ、タイトルの言葉が出て来るのか、つまり結婚式が行われるのかと期待しながら読みましたが、その場面は最後まで登場しませんでした。主人公は家具作り職人の須藤壱晴と、小さな出版社に勤める本橋桜子が繰り広げる、大人の純愛小説といったところでしょうか。ネタばれしないように、あまり内容については入りませんが、様々な出来事を通して、二人の心が大きく揺れ動く、その様子が読む者を惹きつける良い小説だと思います。

 少し文章を引用しますが、桜子と壱晴との関係が上手くいかなくなってきたとき、桜子が心の葛藤を記した場面です。

 「壱晴さんに対しては、貝のむき身みたいな自分をさらして向き合ってきた。少し砂がついたくらいで痛い痛いと泣いてしまうような自分。誰にも見せたことのない姿。壱晴さんだってそういう姿を私に見せてくれたのだと思っている。けれど殻をぴたりと閉ざしてしまえば、そんな人間の生身の部分なんてすぐに隠れてしまう。」

 この言葉はとても印象に残りました。社会生活を送る上では、私たちは無用に傷つかないように、普段は固い殻で柔らかい中身を守って生活しているのだと思います。どんな人にも「貝のむき身」の部分があって、そこはとても傷つきやすいものです。その「むき身」を自然に見せられる相手はそうはいません。両親とか、夫婦とかごく限られた関係でしか見せられないものだと思います。しかも、人は長く生きていると無傷のむき身の人は殆どいないでしょう。

 相手の「むき身」をどのように受け止め、どのように愛するか、それぞれだと思いますが、でも、この人なら受けとめ、愛し続けようと決心して人は結婚するのではないでしょうか。

 キリスト教の結婚観は「やめるときも、すこやかなるときも」です。互いが健やかなときは、問題無いとしても、大切なのは、やめるときです。やめるとは「病める」、病気を連想しますけれど、病気に限らず、例えば、会社が倒産したとか、子どもが学校に行かないとか、危機はいつでも起こり得ます。最近でいえばテレワークで思いがけず夫婦がいつも一緒にいるということさえ、危機を感じることがあるようです。

 それぞれの家庭にそれぞれの「やめるとき」があると思います。でも、そんな時でも、互いに愛して、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを、約束して結婚したはずです。キリスト教式の結婚式はしていないと言っているあなたも、心の中は、必ずそうなっていたはずです。でも、いつの間にか、少しずつ薄れて来ることもあるでしょう。忙しさの中で忘れていくこともあるでしょう。

 だから大切なことは、あの時のあの気持ちに戻ることです。あの時のあの気持ちとは、貰ったから、その分のお返しとか、ギブ&テイクのように、贈られたから、こっちもそれなりものをといった気持ちではなかったはずです。まさに「やめるときも、すこやかなるときも」どんな時も、この人を守ろうと決心したはずです。その気持ちが、今月の聖句の中に込められている意味です。「互いに愛し合いなさい」とは、ギブ&ギブという意味です。互いがそのような気持ちを持って歩んでいきなさいという意味です。そのような人生を昨日も、今日も、明日も、私たちは生きていきたいものだと思うのです。