聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2023年 11月

創世記1:1節において聖書は「初めに、神は天地を創造された」と有無を言わせずに、神の存在を語っています。すべての初めに、神がおられたということです。パウロ新約聖書で語っています。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ロマ11:36)。

 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」何という神秘的な世界観でありましょうか。その混沌としている深い闇の中に神が「光あれ」と語ったのです。神自らが光と闇とを分け、光を昼、闇を夜と呼ばれたのであります。そして「夕べがあり、朝があった」と神の創造の第Ⅰ日目をそのように語るのです。

第Ⅱ日目第Ⅲの日も創造されたものを神は、「良し」とされたのです。Ⅳ日目第Ⅴの日も「良し」とされました。Ⅵの日、人間を創造したのです。神はお造りになった全てのものをご覧になって、「それは極めて良かった」と満足なさいました。「夕べがあり、朝があった」と聖書は記しています。第Ⅶの日に神はすべての仕事を離れ、安息なさり、この第Ⅶの日を祝福し、聖別なさったのです。

 

 天地創造が始まり、神のなさった御業の一つひとつには、「夕べがあり、朝があった」のです。夕べの出来事が先なのです。闇が、混沌が、訳のわからない、理解困難な状況、状態、そして出来事が、いつも先にあるのです。存在しているのです。

 戦争が起こっています。国は国に、もっともな理由付けをし、自国の保身、利益のために、領土拡大のために、戦いを止めようとはしません。そのために、神が愛を注ぎ、大切に大事になさり、「私の目にあなたは尊い」といわれた多くの人々の命が奪われているのです。麗しい自然は破壊されています。人間のなしてきた多くの環境破壊のために、地球は病み、痛み、叫び声を上げているのです。

「御心の天になるごとく、地にも成りますように」と、「良し、とされたもの」の、すべての破壊を止めなければ成りません。神の御心がこの地に行われることを諦めることなく祈り続けて行きたいと思うのです。

私たちの人生にも、理解困難な、闇のように混沌としている出来事が、起こって来ています。そこが始まり、スタート地点といっても良いほどであります。何の始まりでしょうか。どこに向かうスタート地点なのでしょうか。

 混沌とした闇は、理解できない、納得できないこの暗さは、朝へ向かっての出発地点なのです。暗い闇を通過しなければ、輝いている光の明るさを理解することはできません。私たちは度々、暗い夜を、深い闇の中を通らされます。長い、ながい、夜を経験したと致しましても、必ず夜は明けます。「夕べがあり、朝があった」と聖書は淡々と、当たり前のように記しています。そして朝と共に、喜びが私たちの上には訪れるのです。「朝が来ることを」、「必ず暗い夜が明けることを」、待ち望みたいと思います。

 

昼、主は命じて慈しみを私に送り、夜、主の歌がわたしと共にある、私の命の神への祈りが」(詩編42:9)と詩人は歌っています。いつくしみを送って下さる主がおられます。慰め、励ます、主の歌が、わたしたちの道連れなのです。 

2023年 10月

聖書は人の命の尊さを教えると同時に、その命のはかなさをも教えています。

 

  「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところ

   は労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

   生涯の日を正しく数えるように教えて下さい」

                       (詩編90:10.12)。

 

 旧統一教会は信徒から多額の献金を募っていたということが、徐々に明らかになり、社会的にも大きな問題となりました。宗教に対する厳しい批判の目が、解散云々というところまで高まっております。

 旧統一教会の信徒たちはマインドコントロールによって、献金最優先の生活を強いられ、大切な多くのものを犠牲にし、家族崩壊を招きながらも、何千万という、考えられない献金をささげていたといいます。彼らは私利私欲のために貧しい者からお金を吸い上げていたのです。

 お金は、生きるためには確かに大切で、重要なものであります。私たちは生活に必要なお金が与えられますようにと祈りをささげています。聖書には愚かな金持ちの話が記されています。男は「大きな倉を建て、何年もの蓄えをし、食べたり、飲んだりして楽しもう」と思ったのです。

 誰もが、考えることかもしれません。しかし、神は言われたのです「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる」(ルカ12:20)「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」神の目は厳しいのです。本質をズバリ突いています。

 同じ命を与えられていながら、しかし、神の前に貧しい者がいて、神の前に豊かな者がいるというのです。人間の前にではないのです。神の前になのです。私利私欲のため、己の腹を満たすために精を出す者。神の愛と恵みに感謝しつつ、自分の事はさておき、他者のために、労を惜しまない者。双方ともに、同じ尊い命が与えられているのです。

 そして双方共に「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」そのように限りある命を持つ人間なのです。ですから「生涯の日、与えられている限りある日数を正しく数え、日々過ごすことができますように」と、この聖書個所、詩編の詩人は神に祈っているのです。

わたしもまた、限りある命を持ち、多くの年月を重ねてきた平凡な一人の人間であります。神の愛と憐れみの前にへりくだり、悔い改め、「主よ、生涯の日を正しく数えるように教えて下さい」と祈りつつ、歩んで行く事を願っています。

10月、深まり行く秋の気配を、そこかしこに感じつつ、忙しさの中にも、立ち止まり、神の前に静まる一時が与えられますようにと祈ります。

9月

 旧約聖書に登場致しますアブラハムの子イサクの双子の兄弟エサウヤコブの話は、よく知られています。兄はエサウ、弟がヤコブでありますが、弟は、母の胎を出るときに、兄の「かかとをつかんで」出てきたと言われています。

 我が強く、何とも好きになれない人物なのですが、なぜか神の祝福を受け、後のイスラエルと改名されています。彼は兄をだまし、長男に与えられる、長子の権利、そして神からの祝福をも兄から横取りしてしまうような、こざかしく、悪賢い人物なのであります。

 あるとき、あまりの弟の振る舞いに、兄エサウヤコブの命を狙っていることを耳にし、ヤコブは故郷を後に、逃亡の生活へと入るのです。それは自分が犯した悪しき行いのためであったのですが。とある場所に着き、深い孤独にさいなまれながらも、石の枕を頭に眠りに入るのですが、その時に、神の声を聞いたといいます。

 神の言葉は彼を励ましました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)。

 逃亡者ヤコブは、その時に、はっと気づかされるのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世記28:16)。なぜ神はこの人間的に悪なる姿を持つヤコブを愛されるのか。それは謎であります。神の主権に属することであります。

 しかし、悪なる姿を持つ人間をこよなく愛されるのは、神の大きな特色とでもいえるのではないでしょうか。

 ところで、私たちは、決して生きやすい世に住んではおりません。止まない戦争、終わりの見えない感染症、尽きない悩みや苦悩、誰にも話す事のできない家族の問題、心の問題もあります。体の痛みを抱えてもいます。もがき、苦しみ、七転八倒しているこの現実の、この場所に、まさに、この、ど真ん中に、神がおられるというのです。

 ヤコブは兄の前から逃げなければならない、そして家族の前から逃げ出さなければならない、不安と孤独、ある意味絶望的な状況のその中で、その現実のただ中におられる神を初めて知ったのです。「神はこの場所におられるのです」そして、そのことに気づこうともしない私たちの姿があります。「神はこの場所におられるのです」「私たちは気づかず、知らないのです」。

 9月、1年の折り返し地点。前途に何が待っているのか。しかし、どのような中にあっても、「決して見捨てない」とエールを送り続ける神の思いを受け止め、前を向いて、大胆に雄々しく歩んで行きたいと思います。

2023年 7月

旧約聖書アモス書5:4

「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」

アモス書5:6

「主を求めよ、そして生きよ。」

 

 アモス書5章の小見出しは、「悲しみの歌」となっています。アモスの時代の人々は悪政に苦しめられており、治世は乱れ、神殿も悪の巣と化していたのです。あまりの悪なる姿に諸国民に対する審判が語られています。

 アモス書は旧約聖書「12小預言者」の第3番目の書であります。そしてアモスという預言者は、預言書というものを遺した最初の預言者であったのです。彼は北イスラエル王ヤロブアムの治世末期にベテルの王国の聖所、サマリアの都で王国滅亡を預言したのです(前755年頃)。

 北イスラエルの支配階層の繁栄による傲り、社会的不正、民族主義的傲慢、を批判したのです。そして、貧しい者を苦しめる支配者層を痛烈に悪と断じ、王国の滅亡を預言したのです。

5:14には「善を求めよ、悪を求めるな」。15節には「悪を憎み、善を愛せよ」

そのような言葉が記されています。

 

 現代はアモスの時代からどれほどの時を経ていることでしょうか。しかし、現代もまた、相も変わらず、悪がはびこっています。世界は核をちらつかせながら、正義という名の下で、戦争という人殺しをやめようとは致しません。

 多くの大切な命が、理由なく奪われているのです。弱肉強食の理論がまかり通っています。宗教さえも、途方もない高額な献金を要求し、家庭をボロボロに破壊し崩壊させているのです。尊い命は軽く扱われ、日常茶飯時的に平気で命を奪う輩が出没しています。

 陰湿ないじめは悲しむべき自殺者を生み出しています。虐待する保育者や保護者、心痛む事件のかずかずが起きています。

 何を求めて生きているのか。何を指標として生きているのか。何を見つめ、何を頼り、この命を生きながらえさせれば良いのか。アモスは、暗闇のその中で、光の見えない不毛のような現実を見つめながら、「わたしを求めよ、そして生きよ」「主を求めよ、そして生きよ」との希望を主の言葉に託して、命ある者にエールを送っているのです。

 求め、委ね、信頼することができ、行く道筋を照らし出してくれるのは、一体誰なのか、何なのか。闇の中に輝く一筋の光は果たして存在するのか。聖書は「存在するのだ!」と言っているのです。他者を排除し、自己主張を貫き通し、自我丸出しのところに希望はないでしょう。「善を求めよ、悪を求めるな」。「悪を憎み、善を愛せよ」、謙遜にへりくだり、「主を求めて、そして生きよ」そこに、希望が生まれ、見えてくるかもしれません。

2023年 6月

聖書の言葉         牧師 小林美恵子

「あなたがたの光を人の前に輝かしなさい」(マタイによる福音書5:16)

 

 長い間、私はこの聖書の言葉が嫌いでした。なぜなら、クリスチャンではありましたが、自分の内側に「光」など無いことを、良く知っていたからです。ましてや「人の前に輝かす?」、そんな「光」は私の内側には、どう、ひいき目に見たとしても、「ない、ない」と自覚していたからです。

 

 しかし、ある時、そうではない「イエス御自身が、光、そのものなのだ」という事を知ったのです。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネによる福音書1:4~5)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネによる福音書1:9)。

 

私の内側の暗い闇を照らしてくださる光が、ここに、確かな存在として在ったのです。まことの光ですべての人を照らす光、その光を心の中に、受け入れれば良いのだという事を知らされたのです。

 

人間の努力ではない。光そのものであるイエスを受け入れる時に、光は、内側で、そして人々の前で、光を放つのです。

 私の光ではなかったという事です。私の努力でもなかったのです。固く閉ざしている心のドアーを開けさえすれば、光はまず、私の内側を照らし出し、外に向かって輝きを放つのです。光は、イエスを、心の中にお迎えした時に、人々の前で、輝き始めるのです。

 

2023年 5月

聖書の言葉         牧師 小林美恵子

 

エルサレムエルサレム、予言者たちを殺し、自分に遣わされたれた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはおまえの子らを何度集めようとしたことか。だが、おまえたちは応じようとしなかった。」

(マタイによる福音書23:37)

 

 『ひよこさん』という童話があります。ある日、ひよこちゃんは、一人でお散歩に出かけます。どんどん歩いて、また歩いて、夕方になり、すっかり周りが暗くなってきたのです。ひよこちゃんは、疲れてしまい、その場に、寝込んでしまうのです。

 朝になり、なんとなく温かいものを感じ、目を覚ますと、なんと母さん鶏が一晩中、羽を広げて、ひよこちゃんをすっぽりと包み込み守っていたのです。鶏母さんと、ひよこちゃんは、何事もなかったかのように、お家へ帰っていきました。

 ざっと、このようなアラスジです。

 

 お母さんの優しさお母さんの愛、それは神様に通じるものであります。神の愛のひな型が母の愛であるいっても過言ではないでしょう。母という存在は、必死で子供を守り抜く存在であります。その子供が、幼ければ幼いほど、自分の命をかけても、子供を慈しみ、見守り、全力で守り抜くのです。

「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはおまえの子らを何度集めようとしたことか。だが、おまえたちは応じようとしなかった。」イエスの叫びであります。

エスの時代、エルサレムの人々がイエスを拒絶し、受け入れようとしなかったことを嘆いているのです。神様の愛と恵みを知りつつも神の元に来ることを拒んでいる人々への主の嘆きであります。

イザヤ書31:5には次のような言葉が記されています。

「翼を広げた鳥のように 万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる」

私たちは神の守り、助けの中に生かされているのです。神は、翼を広げた鳥のように、私たち守り、慈しみで覆っていてくださるのです。この愛を拒まず、この慈しみに応じる者になりたいと思います。

2023年 4月

聖書の言葉         牧師 小林美恵子

「しかし、イエスはこれを見て、憤り、弟子たちに言われた『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」(マルコによる福音書10:13-14)

 

 イエス様の時代、子どもや、女性は、男性とは、全く別の扱いを受けていました。人格も、人としての尊厳も認められてはいませんでした。男尊女卑の時代、家夫長制度の中にあって、子どもや、女性は、数にさえ数えられないという、考えられない時代の中に生きていたのです。

 イエスの周りには、常に大勢の群衆が押し寄せ、その話に聞き入っていました。イエスはあちこちで不思議な業を行い、精神や病を患っていた人々を癒やされたと、聖書は語っています。

 多分イエスの噂を聞きつけた病を持っている子どもの母親であろうと想像いたしますが、必死で人垣をかき分け、やっとの思いで、「触れていただくために」イエスの元に子供を連れて、たどり着いたのです。ところが、イエスが連日の奉仕と群衆の対応で、お疲れであろうと察した「弟子たちは、この人々を叱った」のでありました。

 イエスを思ってのことであろうと思われます。しかし、今度はそれを見た、イエス自身が「憤った」と聖書は語るのであります。弟子たちは、激しく人々と子供たちを叱ったようであります。それを見て憤ったイエスも、弟子のその態度と言葉に、非常に、悲しみを込めた、また、我慢できないような思いを込めて、怒りを表したのです。

 弟子たちの激しい怒りが記されていることは確かなことでありますが、弟子以上に憤った愛なるイエスを思うときに、疎外され、無視され、小さく、貧しくされている存在に対する、暖かいとびっきり愛情深い存在であるイエスの姿を私たちは知ることになるのです。

 特に「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」の言葉に、私たちは、イエスがどれほどの愛を子どもたちに注がれておられるのか、子どもたちがイエスの元に行くことを妨げるのは、何人たりとも許されてはいないのだということを、心に刻まなければならないということを知るのです。

 

 私たちの言葉、態度、思いを敏感に感じ取り、とっさに捉えることのできる澄んだ眼を持っている子どもたちに、私たちは接しています。そしてその子どもたちの「絶対的な味方は神であります」。神の堅い守りの中に、神の愛なる御手の中で、子どもたちは生かされていることを、よくよく、知らなければならないのです。

どのような存在であろうとも、神に生かされている子どもたちの前に、私たちのすべてを、神の愛に包んでいただき、身も心も覆っていただかなければ、子どもに接し、子どもと共に成長して行くことは叶わないことなのかもしれません。愛なる神が彼らの味方なのです。