聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2023年 3月

「一生の間、あなたの行く手に、たちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、

見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」   

 (ヨシュア記1章5~6節)

 

 今月の聖書の御言葉は、旧約聖書ヨシュア記という箇所からです。イスラエルの民は長い間エジプトで奴隷として働かされていました。その過酷な労働のゆえに助けを求めた民の叫びは、主なる神の耳に入り、神はイスラエルを顧み、御心に留められました。

モーセという導き手を遣わし、モーセのもと、イスラエルの民は男性だけでも60万人、全員では120万もの人々がエジプトを脱出することになります。しかし、試練は続き、人々は40年に亘り荒野を旅することになります。40年後、彼らは主なる神が与えてくださると約束していたカナンの土地に到着しました。しかし、多くの人々は年老いて、モーセもカナンの土地を目の前にして天に召されていきました。いよいよカナンの土地に入るという場面で、モーセの次の指導者として選ばれたのがヨシュアという人でした。

主なる神はヨシュアに対して上記の御言葉を告げたのです。「一生の間、あなたの行く手に、たちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」ヨシュアは、神の御言葉に励まされて、自分に与えられた役割を果たすことになります。

わたしたちもヨシュアのように「強く、雄々しく」ありたいと願いますし、子ども達に対しても「強く、雄々しく」育って欲しいと願う思いは一緒ではないでしょうか。

 その為には何が必要でしょうか。一つは聖書の御言葉のとおり、主なる神が自分の人生に共にいてくださるという神様に対する信頼です。信頼は安心感へとつながり、安心感は自己肯定感を強めます。自己肯定感がしっかりしている人は、その同じ量で、他人を受け入れ、良い人間関係を構築していくことが出来ると言われています。つまり、この社会を上手に生き抜ける力を持つ人となっていくのです。ヨシュアは確かな自己肯定感を持ち、イスラエルの良きリーダーとなった人でした。

 自己肯定感の成長は12歳頃までが大切という説(諸説あり)があります。健全な自己肯定感を身に付けて行くためには、その人が家族や兄弟、友達から愛され大切にされ、必要とされていると感じる環境が必要です。共に生きているという安心感は、自分で自分を大切にし、同じ量、隣人をも大切にしようとする心を生み出します。自分を大切にする人は、健全な自信を持ち、他人の言葉に左右されず、勇気をもって決断し行動できる人でもあります。

ドレーパー記念幼稚園は、キリスト教主義の幼稚園です。キリスト教主義教育とは、健全な自己肯定感の成長を願っての保育という意味があると私は思っています。保育方法とか、保育内容というよりはそのような信念なのです。信頼出来る人がいつも回りにいる状態は、幼子の健やかな成長にどれほど有意義でありましょうか。特に、不安が広がっている昨今の社会を生きる中で、忘れてはならない大切なことであろうと考えています。

2023年 2月

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。    (ヨハネの手紙一 4章10節)

 

 お母さんは、最初からお母さんではありません。試しに少し子育てをしてみて、出来そうだからお母さんやってみようかなとはいきません。誰もが、子どもの命の誕生の瞬間からその命を守るためにお母さんをスタートさせるのです。

 お母さんは、時給でもありません。時間外労働もありません。休憩の時間もありません。24時間、365日、子どもが泣けば世話をし、毎日食事の用意をし、体を清潔にして、子どもの健やかな成長を願って日々を過ごします。

 お母さんは、幼子から「お母さん、毎日ありがとう」という言葉を求めているわけではありません。そのような思いをもって欲しいと願っているとしても、それはずっと後の時代にそんなこともあるかなって思っている位のものです。

 お母さんは、子どもからすれば「愛」そのものです。いつでも無条件、無尽蔵に「愛」を与えてくれる人であり、与えられれば与えられる程に、自分が愛されていて、自分の存在がどんなに素敵なのか、説明ではなく、その愛という形で理解しています。

 

 神様の愛は、お母さんの愛に似ています。神様は人間に命を与えてくださり、人間の命の誕生の瞬間からその命を守るために人と共におられる方です。

 神様は時給でもありませんし、時間外労働もありません。休憩もなく、24時間、365日、私たちを励まし、力付け、勇気を与えてくださいます。

 神様は人間から「神様、ありがとう」という言葉を求めているわけではありません。そのような思いをもって欲しいと願っているとしても、でも、人がそう言わないとしても神様の愛が減るわけでもありません。

 神さは、人からすれば「愛」そのものです。いつも無条件、無尽蔵に「愛」を与えてくださる方であり、その愛が人に届くように願われました。見えない神様の愛の形が見える形としてイエス様の誕生へとつながりました。

 

 イエス様を通して神様の愛が与えられれば与えられる程に、自分は愛されていて、自分の存在がどんなに素敵であり、大切にされているのかと説明ではなく、その「愛」を心で感じる時、人は一つ成長するのだと思います。

 

 お母さんと神様は似ています。でも、決定的に違うところは、神様からすれば、お母さんも子どもであり、神様から愛される存在だということです。人は母であろうと、父であろうと子であろうと、全ての人は神様から愛される存在として命が与えられました。人は「愛」がなければ生きていけません。

 聖書には「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と記しています。信仰以上に、希望以上に人は「愛」がある所で生きていくのです。私たちは自分を愛し、家族を愛し、隣人を大切にしながら生きていきましょう。神様の愛に包まれて生きていきましょう。

2023年 1月

「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や

近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで

ください』という言うであろう。(ルカによる福音書15章5~6節)

 

 

 イエス様のたとえ話です。イエス様はこう話されました。『百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊をみつけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びがある。』

 

 新型コロナウィルスが流行する前に、大塚平安教会は月に二回、水曜日の午前10時から「平日礼拝」を行っていました。一回は私が、もう一回は近隣の教会の牧師をお招きして、説教をしていただいていました。その際にさがみ野駅の近くの「カンバーランド長老キリスト教さがみ野教会」の宮井岳彦先生を御招きしてお話しを伺ったことがありました。

 こんなお話しでした。「もしかしたら、ある人は九十九匹もいるんだから、仕方ない一匹諦めようと思うかもしれません。でも残りの九十九匹の中の一匹がまたいなくなったらどうするのでしょう。仕方ない九十八匹いるんだから諦めようと思うのでしょうか。でも、また九十八匹の中の一匹がいなくなったら、どうするのでしょうか。仕方ない九十七匹いるのだから一匹諦めよう、と思うのでしょうか?そして、気が付いたら半分になっていたり、もっといなくなっていたりしたらどうするのでしょうか?」とても印象深いお話しでした。

 イエス様は決して諦めないで迷った一匹を徹底的に探してくださる方なんだなぁ、と思うととても嬉しくなりました。そして見つけた一匹を喜んでくださるというのです。

 

 私たちは、たとえるなら百匹の羊の群れのようなものです。イエス様は羊飼いで、私たちはそこに集まる羊の群れです。しかも私たちは人間ですから、自分の意志がありますから、迷うというよりは、群れが嫌になったりして神様から離れてしまうことがあります。

  お正月の凧は風に乗って空高く上がりますが、その際大切なものは一本の糸です。この糸によってバランスを保ち、高く高く上がります。でも、もし凧がこの糸邪魔だと思って、糸が無かったらもっと高く上がれるはずだと思って、自分でチョキンと切ってしまったら、凧は自由になると同時に、地面に落ちてしまうでしょう。そのように群れから離れ、神様から離れた途端、自由になれたと思った途端に不安も襲ってくるのです。本物を見失ってしまうからです。でも、本物の神様はそんな私たちをいつまでも、どこまでも探して、探して、探してくださいます。そして必ず見つけてくださいます。そして見つけた時、大いに喜んでくださいます。私たちはそれほどに神様に必要とされ、大切にされているのです。だから、安心なのです。親の安心は子どもの平安と直結します。私たちは神様に守られ、子どもたちを愛し、家族を大切にしながら過ごしてまいりましょう。

2022年 12月

「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を

見ようではないか」と話し合った。  (ルカによる福音書2章15節)

 

 御子イエスが誕生された町がベツレヘムです。ダビデの町と呼ばれていました。イスラエルの歴史の中で一番愛された王様ダビデが生れ育った町です。イスラエルの人々は長い間、聖書が約束している救い主の誕生を願っていました。救い主はダビデの子孫から誕生すると信じられていました。神様はその約束通り、私たちの救い主であるイエス様をダビデの町ベツレヘムで、妻マリアと夫ヨセフの間に誕生させたわけでありました。

 その夜の出来事です。野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちのところへ、主の天使が近づきました。主の栄光が周りを照らしたので羊飼いたちはとても恐れました。天使は話しかけました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

羊飼いたちはその喜びの知らせを聞いて「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、すぐにベツレヘムへ向かい幼子イエスと出会って互いに喜んだのです。クリスマスの出来事のクライマックスの場面です。

 羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう」とすぐに行動を起こしました。なぜ、そうしようと思ったかと言えば「主が知らせてくださった」からです。神様が行動を起こしなさいと促してくださったからです。

 人生は決断の連続です。私たちは小さなことから大きなことまで決断して生きています。日頃の些細な決断はともかく、人生を方向付ける大きな決断が迫られることがあります。進学、就職、結婚等、色々とあります。そのような時は簡単に決めることは出来ません。時に逡巡し、時に立ち止まり、時に迷うのです。でも、決めていかなければなりません。

 何年か前のことですが、大きな決断が迫られ、牧師の諸先輩に相談したことがありました。でも何人かは右に行けと言うし、何人かは左に行けと言うのです。更に混乱し辛い思いをしたことがありました。最終的には右にも左にも行けず、どちらでもないこの道こそ神様の示される方向と信じて行動しました。その道が最善であったと今も信じています。

 「こうすれば夢が叶う」といった類のハウツウ本には、「すぐに決断!即行動!」といった言葉が羅列されています。でも早ければ良いのではなく、これこそ「主の知らせ」と確信に満たされた時こそ、きっと動く時です。

 神様はイエス様の誕生を、今から2000年前のその時に決断されました。その時が最善だったからです。その最善は2000年以上に亘り、私たちに希望を与え続けています。私たちも勇気を出して、神様との新たな出会いを求めて2022年の12月を過ごしていきましょう。クリスマスは是非教会に!

2022年 11月

「では、わたしの隣人とは誰ですか」  (ルカによる福音書10章29節)

 

 ユダヤ教の専門家が主イエスを試すために聞きました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」主は「律法には何と書いてあるのか」と言われると彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。

 イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればあなたは命を得るであろう。」と教えられました。でも、彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とは誰ですか」と改めて聞いたのです。

 そこで主は「善いサマリア人のたとえ」を話されました。ある人が旅をしている途中、山の中で追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまそこを通りかかったが、その人を見ると道の向こう側を通って行ってしまった。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまった。ところが、そこに旅をしていたサマリア人が通りかかり、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、銀貨二枚を出して、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」このようなたとえ話です。

 主イエスは改めて聞きました。さて、あなたはこの三人の中でだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」専門家は答えました。「その人を助けた人です」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」

 追いはぎに襲われた人の側を通った一人目は祭司です。今でいえば牧師と言っても良いでしょう。二人目はレビ人です。この人は祭司を助ける大切な仕事を担う特別な人です。二人とも襲われた人を横目で見ながら、知らんふりして通り過ぎてしまいました。介抱していたら自分も追いはぎに襲われるかもと思ったかもしれません。いずれにしても助けませんでした。三人目のサマリア人は、当時同じ民族でありながらも、差別され、蔑まされていた人でした。ユダヤ人はサマリア人とは言葉も交わさず、近寄りもしませんでした。  でも、サマリア人は彼を助け、自分のろばに乗せ、宿屋で介抱し、宿屋の主人に銀貨を渡すことさえしました。三人の中で、追いはぎに合った人の隣人になったのは間違いなくサマリア人です。主イエスユダヤ教の専門家に「あなたも同じようにしなさい」と話されました。そして、この御言葉を読む、私たちに対しても「あなたも同じようにしなさい」と伝えている訳です。

 主イエスは、わたしの隣人とは誰ですか?と聞かれたのに対して、「あなたは誰の隣人になろうとしているのか?」と問い直しています。私たちは誰の隣人になれるでしょうか。誰の隣人になれないのでしょうか。頭に思い浮かべてみると、そこに自分の人生の課題が見えてくるかもしれません。

 神様は、私たち一人一人の隣人となるために主イエスをこの世に誕生させてくださいました。それが私たち人間の幸せと平和への道だったからです。憎しみは破壊と破滅を生み出します。主イエスを知る私たちは神を愛し、隣人を愛して生きていきたいものです。

2022年 10月

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしに

つながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに

実を結ぶ。」                  (ヨハネによる福音書15章5節)

 幼稚園の園舎が新しくなりました。綺麗な園舎で入るだけで気持ちが良くなります。鉄筋ですから安全性も優れていますし、防音、断熱も最高でしょう。これからの園生活が楽しみです。教会は7年前に木造で建設しました。その際に気を付けたのは防音でした。教会、幼稚園とも車の往来が激しい道がすぐ横にあります。礼拝堂で礼拝をしている時に、騒音が入らないようにと木造でも、防音が優れた構造にしてもらいました。窓を開けるとうるさいですが、閉めると殆ど外の音は聞こえません。勿論、断熱材もしっかり入っています。

 聖書が伝える「罪」とは神様と人との間の防音壁のようなものだと教えた牧師がいました。良く分かります。防音壁、断熱材は、外と内とを隔てて私たちの住環境を整えてくれます。でも、神様と人との間に防音壁があると、どうも人の人生は良くないようです。神様とつながりが切れてしまっているからです。

 「神様の愛」とか、「神様の恵み」という言葉があります。分かるようで分からないような言葉ですが、一つの定義があります。それは、愛を受けるに値しない者が受けている、恵みを受けるに値しない者が受けている、ということです。

 私たちは神様の愛を受けるに値せず、恵みを受けるに値しないけれど、神様は、神の一人子であるイエス様をこの世に誕生させてくださり、私たちを神の愛、神の恵みを受けるに値する者としてくださいました。人の力では神様のところに行けないので、神様が私たちのところに来てくださったのです。私たちとつながってくださろうとしたのです。

 神様とつながっていないと、自分が神様のようになります。自分が神様のようになると、自分の思い通りに動かない人には腹が立ちます。例えばプーチン氏や、北朝鮮の偉い人などを見ていると、神様のようになっている様子が良く理解出来るでしょう。思い通りに動かない人には強い罰が与えられたりするのです。そのような権利が自分にはあると思っているからです。

 勿論、私たちは彼らのようには生きていません。でも、だから大丈夫、でもありません。自分の思い通りに動かない子どもや、家族に腹を立ててはいないでしょうか。自分の思い通りにいかない社会や周囲に怒りが向けられていないでしょうか。自分以外のものを変えようとしても、そのような努力は徒労に終わる可能性が高いのです。怒りや暴力といったマイナスの力によっては更に強いマナナスの抵抗を受けることになるかもしれません。

 大切なのは神様につながることです。イエス・キリストの愛と恵みというプラスの力につながることです。神様の愛につながっている人は、自分が幸せに生きられる人です。そしてその幸せを周囲に与えられる人になります。あの人と一緒にいるとなんだかホッとすると思う人があなたの周りにおられますか?その人はきっと神様につながっている人です。あなたもそのように生きていけます。秘訣は神様とつながることです。イエス様は「つながっているその人は豊かに実を結ぶ」と教えられました。私たちの人生が豊かな実りをもたらすために、神様のプラスの力を沢山いただいて、感謝と笑顔で10月も一緒に過ごしていきましょう。

2022年 9月

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」

(マルコによる福音書4章8節)

 今月の御言葉は、イエス様のたとえ話です。種を蒔く人が種蒔きに出かけました。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いので、すぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。ほかの種は茨の中に落ちました。芽が出て成長しても、茨が覆いふさいだので実は結べませんでした。ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。そして、イエス様は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われました。

 このたとえ話は聖書の中でもよく知られているたとえ話です。種は神様の御言葉です。畑は私たちです。良い畑に蒔かれた種は豊かな収穫を得るとイエス様は教えられました。

 このたとえは、色々な適応ができると思います。ドレーパー記念幼稚園は、昨年夏にスタートした園舎建築が完成し、2学期から新しい園舎での生活となりました。新園舎は言わば良い土地です。全てが新しく全てが新鮮です。この場合、子どもたちを種と捉えることも出来ます。種としての子どもたちが元気に、健やかに成長して欲しい、誰もがそのように願っています。その為の新園舎建築でもありました。

 でも、確かな成長を望むには園舎が新しくなっただけでも足りません。私は8月、家族4人で山梨に桃狩りに行って来ました。大きな美味しい桃の実りを見て驚く程でした。山梨の知り合いに聞いたら桃の確かな実りを得るために、桃農家は毎日朝から晩まで桃の木の手入れをしているそうです。太陽の光、雨といった自然環境から良いものを得るだけでなく、草取り、肥料、虫よけ等、毎日の丁寧な世話が確かな実りをもたらすそうです。

 その通りだと思います。子どもたちが毎日元気に豊かに成長していくために、ご家庭の皆さんも幼稚園も私たちの思いが一つとなって進んでいけたらと願っています。

 特に、種から芽が出て成長し根が伸びて、ひとまず安心となるまでの時期がどの時期よりも大切なのは言うまでもありません。人間の成長も小学校に入る前の段階、子どもたち自身にはあまり記憶として残らないかもしれない3~6歳の時期がその人の成長を支える土台となると思います。この年齢の時期に、戦争が無く、食料の不安が無く、安全に過ごせる私たちの国に生まれたというだけでも幸いですが、更に家庭が笑顔に満ち、友達に恵まれ、大人に受け入れられ、自分は愛されていると感じながら育った子どもたちは、どんなに幸いであろうかと思います。

 今の時代、多くの大人も子どもも、「自分は自分で良くない」と感じている人が大勢います。自分自身の人生を確立しきれない人が大勢います。そのような中で、「自分は自分で良かったな」と思える心が育まれ、希望と笑顔をもって生きていけるように、そして、自分が思い描いた人生を遥かに超えて、30倍、60倍、100倍もの実りがもたらされるように、親として、また、幼稚園として子どもたちの命と笑顔を守り皆が協力し合いながら、神様に守られて秋に向かう9月を過ごして参りましょう。