旧約聖書に登場致しますアブラハムの子イサクの双子の兄弟エサウとヤコブの話は、よく知られています。兄はエサウ、弟がヤコブでありますが、弟は、母の胎を出るときに、兄の「かかとをつかんで」出てきたと言われています。
我が強く、何とも好きになれない人物なのですが、なぜか神の祝福を受け、後のイスラエルと改名されています。彼は兄をだまし、長男に与えられる、長子の権利、そして神からの祝福をも兄から横取りしてしまうような、こざかしく、悪賢い人物なのであります。
あるとき、あまりの弟の振る舞いに、兄エサウがヤコブの命を狙っていることを耳にし、ヤコブは故郷を後に、逃亡の生活へと入るのです。それは自分が犯した悪しき行いのためであったのですが。とある場所に着き、深い孤独にさいなまれながらも、石の枕を頭に眠りに入るのですが、その時に、神の声を聞いたといいます。
神の言葉は彼を励ましました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)。
逃亡者ヤコブは、その時に、はっと気づかされるのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世記28:16)。なぜ神はこの人間的に悪なる姿を持つヤコブを愛されるのか。それは謎であります。神の主権に属することであります。
しかし、悪なる姿を持つ人間をこよなく愛されるのは、神の大きな特色とでもいえるのではないでしょうか。
ところで、私たちは、決して生きやすい世に住んではおりません。止まない戦争、終わりの見えない感染症、尽きない悩みや苦悩、誰にも話す事のできない家族の問題、心の問題もあります。体の痛みを抱えてもいます。もがき、苦しみ、七転八倒しているこの現実の、この場所に、まさに、この、ど真ん中に、神がおられるというのです。
ヤコブは兄の前から逃げなければならない、そして家族の前から逃げ出さなければならない、不安と孤独、ある意味絶望的な状況のその中で、その現実のただ中におられる神を初めて知ったのです。「神はこの場所におられるのです」そして、そのことに気づこうともしない私たちの姿があります。「神はこの場所におられるのです」「私たちは気づかず、知らないのです」。
9月、1年の折り返し地点。前途に何が待っているのか。しかし、どのような中にあっても、「決して見捨てない」とエールを送り続ける神の思いを受け止め、前を向いて、大胆に雄々しく歩んで行きたいと思います。