聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2016年 9月

「平和な人には未来がある。」      (詩編37編37節)
 
 先日の礼拝のお話は、ヨハネによる福音書の9章からのお話でした。イエス様と弟子たちが通りすがりに、道の傍らに座っている生まれつき目の見えない人を見かけます。弟子たちはイエス様に尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

この問いかけから、当時の物の見方が分かります。人が何等かの不幸と思われる障がいを持っていたとする。障がいがあるからには、何かの原因があるに違いない。その原因は、その人自身が何か罪を犯したからか、その家族が罪を犯したからに違いない。けれど、生まれつきならば、生まれる前に本人が罪を犯すはずがないのでは? では家族か、先祖が何等かの罪を犯したのだろうか。そんな思いで弟子たちはイエス様に問いかけたものと思われます。
人に何等かの不幸が起こる。その理由を過去のあの事、この事に結びつけようとするのは、もしかしたら昔の話ではなく、現代でもあるのではないでしょうか。

そんな弟子たちの問いかけに主イエスは応えました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」そう言われて、実際に主イエスは目の見えない人を見えるようにして下さいました。

「神の業が現れるため」という言葉は、私の大好きな御言葉の一つです。なぜなら、方向が過去ではなく、未来に向いているからです。方向が未来に向いているとは、希望を持ち続けているということです。神を信じるとは、希望を持ち続けること、と言い換えも出来そうです。幼稚園の子ども達に、希望とは何かを言葉で教えなくとも、子ども達は身も心も希望の塊ですから、そのエネルギーの凄さを誰も否定されないでしょう。けれど、子どもが次第に成長して、10代、20代となったらどうでしょうか。まだまだ希望は沢山あります。30代、40代ならどうでしょうか。きっと希望はまだまだあるでしょう。50代、60代ではどうでしょうか。70代、80代はどうでしょうか。いつの間にか希望という言葉がウソのように感じるとしたら少し悲しいですね。神を信じるとは、年齢と関わり無く、いつでも、どんな時も未来を見続けられる。希望を持っているということです。ルターという偉い牧師は「明日、世界が滅ぶとしても、私は今日、リンゴの苗を植える」と話したそうです。

夏休みに教会は、サマーキャンプを行いました。そのキャンプで、私は子ども達のお母さん方と最近、巷で人気の『アドラー心理学』を一緒に学びました。アドラー(1870-1937)の教えの一つに、「変えられない過去に問題の根源を見つけようとしても解決に結びつかない」というのがあります。不登校の原因として、母乳で育てなかったからだとか、スキンシップが足りなかったからだと言われると、なんだかもっともらしく思えますが、だからと言って過去にさかのぼってやり直しは出来ません。思い当たる原因が分かると安心することもありますが、でも、肝心なのは方向です。たとえ人にどんな過去があっても、力強く未来を見続けられる人が、きっと素敵な人生を送るのではないかと思います。

聖書は「平和な人には未来がある。」と記しました。本当にその通りだと思います。平和な人とは、不幸や悲しみが無い人というわけではありません。どんな時も未来を望み見る人のことではないでしょうか。私たちもそのような人生を生きていきたいと思います。輝く瞳で、私たちを見つめる子ども達に、もっともっと素敵な未来を見せられる唯一の方法は、私たちが希望を持ち続けることだと思うのです。