聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2016年 7月 

「探しなさい。そうすれば、見つかる。」
             (マタイによる福音書7章7節)

 御茶ノ水大学で哲学を教える土屋賢二さんという先生がおられます。東大哲学科を出た偉い先生のようです。その先生、凄すぎて哲学的論理は誰もついて来られない程と言われるようです。どう凄いのか? 
土屋先生のエッセイの中に「あきらめる方法」という文章があるので、ちょっと紹介しますとこんな感じです。

 「あきらめる方法」はいくつかあるが、そのうちの一つは「どうせの方法」である。われわれはよく、「どうせ〜だから」という論法を使ってあきらめている。「物事とは最終的にはロクなことにならない、だからあがいたりするのは無意味だ」という論法だ。これにもいろいろな用法がある。たとえば、「どうせダイエットしても挫折するんだから、食べてしまおう」 「どうせ合格できないんだから、勉強しても無駄だ」 「どうせだれもかまってくれないんだから、不良になってやる」と、自信をもってあきらめている。だが、そこまであきらめがついているなら、そもそもダイエットなどの目標を立てることをあきらめればよさそうなものだ。その点、いまいち説得力に欠ける。説得力があるのはたとえば、余命一年と宣告された人が、「どうせ1年しか生きられないんだ、だから金を貯めても無駄だ」と思って、いつもの並寿司を上寿司に変えるような場合である。ただし、これを拡張して、「どうせあと50年も生きられないんだ、節約するのは無意味だ」と考えて豪遊すると取り返しのつかない結果になるおそれがある。また、仮定法を使って、「どうせ明日交通事故で死ぬかもしれないんだから、今日のうちにお金を使いきってしまおう」と考えるのも危ない。

 などと書かれています。このようにして哲学を学生に教えておられるので、真面目な学生は誰もついて来ないと豪語しておられます。私は哲学者ではありませんので滅多なことでは諦めません。土屋先生の言葉を借りれば、私は間違いなく大器晩成型に入るようです。なぜなら、「今まで成功していないから。」だから、滅多な事では諦めません。これからは良くなる一方ということになるわけです。

 イエス様も言われました。「探しなさい。そうすれば、見つかる。」昔、子どもの私に母親が「無くした物の探し方」を教えてくれました。無くした物を探すためには、まず部屋のものに触らない事。なぜなら、ちらかっている部屋がますますちらかり、更に探し物が奥に入っていってしまうから、と言うのです。部屋の真ん中に立って、じっと目を凝らして探した方が見つかるというのです。この方法で、私もこれまで何度か、物に触らずに、探し物を見つけることが出来ました。だから、牧師室はいつも散らかっているのかと、納得されても困りますが、でも、しつこいほどに「あきらめが悪い」自分を少しは誇りに思ったりもしています。

 先日、高校の同級生からメールが来て、今度教会に遊びに行くよと、写真付で送って来ました。その写真は、なぜか白髪の老人が二人写っていました。メールの返事に「来るときは前もって連絡してね。襲撃は無理だから、それとこの写真は何?」と書いたら、即座に2名の同級生の名前が記されて返って来ました。ギョッとしました、自分はこんな同級生と同い年なんだ〜。でも、そこで思うのは、「もうこんな年か」という思いです。この思いが気持ちをぐらつかせます。だから、大切な事は「もう」ではなく、「まだ」を使うことなのです。「まだ、この年」「まだ、〜歳」と思い直して、人生後50年は生きられないんだからと、豪遊せずに、しっかりとあきらめない生き方を、気持ちよく生きていきたいと思うのです。どんな生き様にするのか、探し続け、求め続ける喜びをますます感じています。神を信じ続けるってこういうシツコさも必要なのだと思うのです。