聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2016年 5月

「神は愛です」      (ヨハネの手紙一 4章16節)                                         
聖書には旧約聖書と呼ばれる箇所と、新約聖書と呼ばれる箇所があります。この二つ合わせて「聖書」となります。旧約聖書はもともとユダヤ教の聖書(正典)として用いられていましたが、主イエスが誕生され、「神は愛です」との福音を宣べ伝え、神の愛に満たされた人々が、その喜びを話さずにはおられないとの思いをもって、世界中に福音を宣べ伝たことによりキリスト教は成立していきました。

旧約聖書も勿論、「神は愛です」と伝えます。でも、そこには一定の条件がありました。それは神様が人に授けた「律法」を守ることでした。律法の代表的なものに、「十戒」があります。今では古い映画ですが、チャールストン・ヘストンやユル・ブリンナーといった往年の俳優が出演しています。ご覧になった方もおられると思います。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)という教えで始まる十戒を初めとして、律法は全部で613の教えがあったと言われます。その全ての教えを守れる人は神の愛に生きている人であり、守れない人は罪があると時の指導者は教えました。特に、食べ物規定、割礼、安息日厳守、の三つは特別に大切にされていました。

例えば、今でもユダヤ教を信じている人々は安息日を大事にしていると聞きます。「安息日に労働をしてはならない。」という教えです。労働とは、例えば、スイッチを入れたり、切ったりも労働です。食事を作ることも労働です。ですから安息日前に、電気のスイッチは入れたままにしておくとか、テレビをつけたままにしておくとか、食事は前日に作って、安息日は食べるだけ、勿論、片付けは安息日の後になるわけです。

私たちには少し不思議に思える習慣ですが、労働をしないという教えを徹底的に守るとすると、こうなるようです。

神の愛を守る為にはそのような厳密さが求められました。613の教えには「〜しなければならない」と、「〜してはならない」という教えで埋め尽くされていました。結局、多くの人は十分に律法を守ることが出来なかったと思います。そうなると律法を守っている(と思っている)数少ない人々は、「あの人も神様から遠い人」、「この人も罪を負っている人」と指摘して、差別するようになり、つまり、裁きを始めました。

人は、人から裁かれるのは腹立たしく思いますが、裁く側からものを言えるのはむしろ楽しいことです。だから、人は人の悪口を話したり、うわさ話に夢中になったりするのでしょう。

けれど結局、そこから豊かな人間関係は生まれてきませんでした。だから神様は、私たちの世に御子イエスの誕生というクリスマスの出来事を与えて下さり、御子イエスは成長し、世に出た時に「神は愛です」と人々に宣べ伝えたのです。主イエスが教える「神は愛」の鍵は、無条件、無尽蔵ということです。

無条件、無尽蔵とは、例えば、誕生した赤ちゃんを見て、人は何が出来るのか? 出来ないのか? とは思わず、赤ちゃんそのものの存在を慈しみ、愛するように、神様は私たちの「存在」そのものを愛して下さっているということです。私たちは、日常の生活で、どれ程人と比較し、比べながら、喜んだり、悲しんだりしているでしょうか。そして、時には人を裁いたり、人から裁かれたりしているのではないでしょうか。それはもしかしたらあたかも「律法」に生きている人のようになっているかもしれません。どうぞ、お気をつけあれ。

私たちは誰に対しても無条件、無尽蔵の「神は愛」を生きていきましょう。あなたも必ずそう生きられます。