聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2019年 6月

「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ」  詩編150編6節

 詩編は、全部で150編の詩が収められています。今月の聖書の箇所は、その最後の150編が取り上げられ、しかも6節は詩編の中の最後の締めくくりの言葉です。その締めくくりの言葉の前に1節から5節が記されています。1節は「聖所で 神を賛美せよ。大空の砦で 主を賛美せよ」とあります。この御言葉はどこで賛美するかが歌われています。それは「聖所」であり、「大空の砦」です。聖所とは礼拝の場とも言えます。大空の砦とは、聖所に限らず、どこでも、です。家で、職場で、山で、海で、子どもの送り迎えに、どこででも、主を賛美する大切さが示されます。2節は「力強い御業のゆえに 

 神を賛美せよ。大きな御力のゆえに 主を賛美せよ。」です。それは、なぜ主を賛美するのか理由が示されます。神の確かな力に守られて、健康が支えられ、家庭が祝福され、子供たちが健やかな成長を遂げている。だから、主を賛美するのです。

 

 3節から5節は「角笛を吹いて 主を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて 主を賛美せよ。太鼓に合わせて踊りながら 神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて 神を賛美せよ。シンバルを鳴らし 神を賛美せよ。シンバルを響かせて 神を賛美せよ。」と記されます。ここには神を賛美する方法が記されています。角笛はラッパという意味です。昔、スイスでホルンを吹かせてもらいましたが、全く音が出ませんでした。口の使い方一つで色々な音や響きが出るのでしょう。琴とは弦が10本張られている楽器のようです。日本の琴のイメージとは少し違うかもしれません。竪琴とは、恐らく現代のハープの原型ような楽器であったと思われます。イスラエルの二代目の王、ダビデは竪琴の名手であったと言われています。きっと素敵な音色を奏でたことでしょう。更に太鼓に合わせて踊り、弦をかき鳴らし、笛を吹いて 神を賛美する。ただ音楽を奏でるだけでなく、体全体で心を込めて皆が一生懸命にという印象を受けます。シンバルの音はきっと賑やかだったでしょう。

 

 この様子は、祭司たちも、集まる民衆も、それぞれに得意な楽器を持ち、音を奏で、また、踊りを踊りながら、笑顔で、楽しみながら神を賛美する姿を思わされます。そして、6節「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。」この意味は、ボーカル、つまり歌声です。楽器に合わせ、踊りに合わせ、リズムを取って、素敵なハーモニーを響かせて、皆で声を出して主を賛美している姿を表しています。実に楽しそうです。「息あるもの」ですから、人間だけでなく、動物も、鳥も、虫も全ての生き物がこぞって、神に向かって賛美の歌声を上げている、とても愉快で、素敵な映像が脳裏に浮かびます。

 

 礼拝とは、きっと本来的には、音楽、踊り、歌声、笑顔、喜び、感謝、平和、祝福、私たちを、息あるものとしてくださった神様に対する感謝と喜びの表現だとも思います。現代の礼拝は少し、そういった面が薄らいで真面目すぎるのかもしれません。でも、大切なのは「大空の砦で」つまり、どこでも神に賛美することは出来ます。

 だから皆さん、家庭でも、職場でも、人との付き合いの中で、笑顔、喜び、平和、祝福を忘れてはなりません。息ある私たちが、神様の大きな恵みの中で、「主を賛美」していきましょう。それぞれに、それぞれの場所で、それぞれの方法でもって、神様に喜ばれていることを喜んで、満たされた人生を歩んでいきたいものです。

2019年 5月

「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」 

                 ヨブ書41章3節

 

 アメリカでのお話です。ある町のスラム街で育った双子がいました。スラム街ですから貧困の街であり、ろくな食事もなく、教育も受けられません。大きな原因は仕事が無く収入が無いことです。だから、皆が貧しく、皆が生きるのに困り、疲れ果てるのです。

 そんな地域で育った双子が成長して、何十年後かにどんな成長を遂げて、どんな生活をしているのか、二人の人生を調査したそうです。1人は、殆ど予想通り、様々な悪さをして、刑務所にいたそうです。インタビューの受け答えで、貧しく生まれ、ろくな教育も受けず、最悪の環境の中で育ち、仕事もなく、そんな条件の中で、彼は「自分がこうなる他の、どの道が私に与えられていただろうか」と答えました。こうなるのは必然だと言ったのです。

 さて、双子のもう一人は大学で教員をしていました。同じようにインタビューの受け答えで、貧しく生まれ、ろくな教育も受けず、最悪の環境の中で育ち、そんな状況の中で、彼は「自分がこうなる他の、どの道が私に与えられていただろうか」と全く同じ答えを告げました。もうこうなるのは必然なのだと言ったのです。

 双子、同じ生まれ、同じ教育、最悪の環境、皆同じです。では何が違ったのでしょうか。それは、「考え方」です。1人は、最悪の環境の中で育ち、何の社会的恩恵もなく、だから、自分は悪さするしか生きる道は無いと考えたのでしょう。もう一人は、最悪の環境、何の社会的恩恵もなく、だから、自分は人より勉強して、なんとか頑張って生きていくしか道はないと考えたのです。同じ条件でも「考え方」が違えば結果は違う、当然だと思われますか?

 神様は、私たちに命を与えて下さいました。私たちに同じ太陽でもって照らし、同じ雨を降らせてくださいます。全く同じ条件です。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」この御言葉は、旧約聖書ヨブ記という箇所の中で、神様ご自身が主人公のヨブに語り掛けている御言葉です。

 もともと、ヨブは裕福で財産も沢山あり、多くの娘、息子に恵まれて幸せに生きていました。神様に対しても非常に謙遜に、毎日、自らの、また家族の罪を悔い、祈りを献げていました。

 ところがある時、突然ヨブに不幸が訪れます。災害や盗賊によって、次々と家族を失い、財産を失い、自分も死ぬほどの病気となるのです。当初「私は裸で母の胎を出た。だから裸でかしこに帰ろう」と言って、神を呪う言葉を決して話しませんでした。けれど、状況がどんどん酷くなるにつれて、さすがのヨブも疲れ果て、「神様、もうこのまま死なせてください」と訴えるようになります。あるいは自分は悪くないと主張するようにもなります。でも、自分が悪くないのであれば、神が悪いとなるのです。

 その後、神はヨブのところに現れて、「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」と告げられた時、ヨブは自分の過ちを知るのです。それは、与えられている条件によって人の生き方が決まるのではなく、与えられている条件をどう受け止め、考えるのかによって生き方が変わるということです。

 神様に与えられている家族、子供、環境は、実際のところ、それぞれに違います。けれど、その違いによって幸せだったり、不幸だったりするのではなく、あなたの「考え方」によって幸せ度が大きく違うのです。

 大切なのは、「幸せは自分持ち」ということです。皆で、神様に守られ幸せに過ごしていきましょう。

2019年 4月

「喜び楽しむものとして」   イザヤ書65章18節

 2019年度の幼稚園の歩みが始まりました。4月の聖書の御言葉は「喜び楽しむものとして」というタイトルです。この御言葉は聖書のイザヤ書という箇所に記されています。正確にはこう記されています。「見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして その民を喜び踊るものとして、創造する。」神様は私たちを「喜び踊るものとして、この世に誕生させてくださった」と教えています。皆さん、喜んでいますか?楽しんでいますか?ところで聖書が告げる「喜び」とか「楽しみ」とはどういう意味でしょうか?

 ある刑務所での話です。二人の囚人が鉄格子から外を眺めていたそうです。一人は、外に見えている地面をみつめながら、自分の人生を憂いて、絶望のため息をついたそうです。もう一人は、同じ窓から見える夜空に沢山の星がきらめいているのをみて、あまりの素晴らしさにうっとりとして思わずため息が出たそうです。二人は同じ環境にありながら、その心の中は全く違っています。

 私たちは、自分の人生が上手くいっていないと思うような時、自分が置かれている環境や、自分の生い立ちのせいにしてしまう時があります。でも、実際に私たちの人生を大きく左右するのは、環境や生い立ちではなく、「心の態度」です。日々の生活の中で、起こって来る出来事を私たちは選ぶことは出来ません。でも、その出来事をどう捉えるのかは自分の心で決めていくことが出来ます。

 「人は触れるものに似る」という言葉を私は良く用いますが、人生とは、真面目で、四角四面に生きていくものと考える親や家族に育てられると、子どもは素直ですから、きっと真面目な子に育つでしょう。人生とは楽ではなく、苦しみを背負いながら生きていくようなものと捉えている家庭に育つと、人生は苦しいものと受け取るでしょう。喧嘩や言い争いばかりしている家族のもとに育つ子は、人生とは負けたら終わりだと思うかもしれません。

 でも、皆さんの家庭ではきっと、生きるとは楽しいことだよ、今日の一日も喜びに溢れているよと、踊るようにして生きておられるでしょうから、そんな家庭に育つお子さんは、人生は「喜び、踊る」ものであり、楽しみ、笑い、将来は素晴らしいと信じながら成長することでしょう。

 聖書に記されている神は、私たちを「喜び、踊るもの」として創造して下さいました。私たちをそのように生きるものとして命を与えてくださったのです。神は、どこまでも肯定的に、前向きに、伸びやかに生きていくことを望んでおられるのです。

 そのようなお子さんに育てたいと思われるのなら、大切なことは三つあります。一つは、自分自身が、自分の人生を喜んで生きていること。二つ目は、自分の子どもに対していつも喜んでいること。つまり、出来るとか、出来ないとか、勝ったとか、負けたとか、早いとか、遅いといった比較や評価をするのではなく、その子の「存在そのもの」を大いに喜ぶことです。三つ目は、私たちの命と存在を支え、肯定して下さる神を知り、神様の愛の中に生きることです。

 ドレーパー記念幼稚園は,そのような神様の愛を伝えたいと願って、明治時代にアメリカから横浜に、そしてこの地にまでやって来て下さったドレーパー宣教師の思いと働きを受け継いで、子どもたちに神様の愛を伝えたいと願った人々によって設立されました。これからも、私たちを「喜び楽しむもの」として下さった神様の愛を沢山受けて、私たちみんなで、一緒に成長していきましょう。 

2019年 3月

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

              マタイによる福音書28章20節

 今月の聖書の御言葉は、2018年度最後の聖書の御言葉にふさわしく、復活された主イエスが、弟子たちに語りかけた御言葉です。正確にはもう少し長くこう話されています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 主イエスは、弟子たちに「すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、」と言われました。洗礼とは、教会で行われる洗礼式の事です。「私は、イエス様を自分の神とし、これまでの自分ではなく新しい自分として、神様と一緒に生きていきます。」と神と会衆の前で宣言して、洗礼を受ける、すなわち自他共に認めるクリスチャンになるということです。

 

 その為に弟子たちは全世界に派遣されることとなり、これまでの歴史の中でも分かることですが、300年以上もの間迫害されてもなお、洗礼を受ける人々は止むことなく、ついに現代、世界中の凡そ30%~40%はキリスト教を信じていると言われています。といっても日本に住んでいる私たちにはあまりピンとこないかもしれませんが、日本に教会があるのもキリスト教国の宣教師が、命がけで日本にやって来たからに他なりません。

 

 話しは変わりますが、主イエスが十字架につけられて死んでしまった後、弟子たちも含めた多くの人々は、これですべてが終わったと思いました。まさしく「死」によってすべてが終わったと思ったのです。弟子たちはこれからどうしようか、と考えたと思います。多くの弟子たちは、また元の生活に戻ろうと考えました。元の生活とは主イエスと共に歩んだように、神様の国を宣べ伝える福音伝道活動に戻ろうとしたのではなく、主イエスと出会う前の元の仕事、例えば漁師は漁師にというように、前の生活に戻るしかないと考えたのです。なぜなら、それが自分にとって一番楽で、自分の場所だと思うからです。

 

 先日、地域家庭学級でも少し話しましたが、私たちは子どもの頃に培った生活環境や考え方によって、それぞれに性格や個性、キャラが出来上がります。そしてその性格や個性は、生涯自分の人生に影響を与え続けます。例えば、不幸な子ども時代を生きると、自分の人生は不幸が普通であり、幸福は自分でないと思い込みます。大人となり一時期、結婚などで幸せを感じていても、それは本当の自分ではないと心のどこかで感じているので、ちょっとのことで落ち込んだりすると、やっぱり自分は不幸だと過度に思ったりする。もっと言うと、不幸な自分に戻ろうとする力が自分の中で働いて、幸いではなく、わざわざ不幸を選び取って生きている人は少なくありません。それが自分だと思っているからです。例え、マイナス方向に向いているとしてもそれが自分の場所と思うのです。しかし、そうだとすると、その人は、生涯、自分は不幸だと思って生きていくしかありません。果たしてそれが良い人生と言えるのでしょうか。

 

 洗礼を受けるとは、そのような、つい昔に戻りたい、マイナスな人生こそ私と、つい思ってしまうような自分の過去と完全に別れを告げて、全く新しくされて、神様が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた言葉を受け入れ、信じて、昔に戻らない。共におられる神様に励まされて、幸いに、幸せに生きて行こうと決心する行為なのです。そのような人生を私たちは一緒に歩みたいものです。

2019年 2月

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

                  ローマの信徒への手紙12章15節

ある、ベテランで有名な俳優さんがいました。舞台稽古をしていた時に、新人の俳優さんが声をかけました。「靴の紐がほどけていますよ。」俳優さんは「ありがとう」と言って、ひもを結びました。でも、また暫くして、新人の俳優さんが、気が付いて話しかけました。「靴の紐がほどけていますよ。」また、「ありがとう」と答えて紐を結びました。そんなやり取りを見ていた別の人が聞いて来ました。「どうして紐がほどけるのですか?」するとベテランの俳優さんは、「いや、別にほどけるのではないのです。この場面は、長い旅の後、やっとの思いで疲れて帰ってきた場面だから、紐がほどけていたほうがこの場面に合うと思ってやっているのですよ。」「だったら、そう言って新人の方に説明したらよいではありませんか?」と聞くと、「私が説明してしまうと、あの人はもう二度と私に注意してくれなくなります。それがもったいないのです。」と言ったそうです。

ベテランで有名であればあるほど、周りは注意してくれなくなります。注意されないと、人はいつの間にか鼻高さんになって、これで良いと思うし、スキが出たり、脇が甘くなったりします。そのことを良く知っていたのでしょう。あるいは新人の俳優さんに対して、感謝しながらも、無言で芝居というものを教えようとしたのかもしれません。

今月の聖書の御言葉は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という御言葉です。とても素敵な御言葉だと思います。こんなふうに生きていきたいと誰もが思われるのではないでしょうか。でも、そのように生きるために必要なことは、自分が喜んでいる人と同じ目線、泣いている人と同じ目線にならなければなりません。

親であれば、子の目線にまで下がって初めて一緒に喜んだり、泣いたりする。幼児に対しては案外上手にできるのですが、小学生の子、中学生の子、もっと大きな子に対してはどうでしょうか。あるいは夫や妻に対してはどうでしょうか。年老いて力を失っている親に対してはどうでしょうか。我が家は認知症になっている母親と一緒に住んでいますが、母親と同じ目線になり、一緒に喜んだり、一緒に泣いたりするのは相当の忍耐と、平安な心が求められます。こちら側に余裕が無ければ無いほどに、つい、冷たく当たってしまいます。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」のは、思っているより簡単ではありません。でも、だからこそ、時にはそのように出来ていない私たちの心を良くご存知で、尚、その思いを受け止めて「あなたは精一杯やっているのだから、大丈夫だよ。」と励まし続けて下さる方がいることを私たちは忘れてはならないと思います。

一緒に喜べなかったり、一緒に泣けなかったりするとき、どうも人間関係がギクシャクします。ギクシャクするのは、喧嘩の前兆です。それは国と国の間にあっても、夫婦でも、親子でも、家族でも同じことではないでしょうか。一緒に喜べると、「私たちはいつも一緒だね~」と笑顔が出るし、一緒に泣けたなら、悲しみは半減するのです。そして、人生色々な事があるとしても、一緒に喜べる人がいる、一緒に泣いてくれる人がいる、そういう経験を積めば積むほどに、「人生はなんと素晴らしい」と思えるのだと思います。皆さん、寒い2月ですが、そんな寒さの中でも皆が一緒になって、心温められて、喜んだり、時には泣いたりしながら、でも、互いに愛し合って過ごして参りましょう。

2019年 1月

「求めなさい、そうすれば与えられる」

                マタイによる福音書7章7節

皆さん、新年明けましておめでとうございます。2019年の1月、聖書の御言葉は「求めなさい、そうすれば与えられる」です。この御言葉は続きがありまして「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」となります。イエス様が多くの群衆を前にして教えて下さった素敵な御言葉だと思います。

東京にある自由学園という学校をご存知の方も多いと思います。「真理はあなたたちを自由にする」という聖書の御言葉から命名されています。「いのち」と「意志の自由」を尊重しようと考えている学校です。創設者である羽仁もと子先生がこんな言葉を記しているそうです。「人生を生きていくのに、二つの動力が動いています。一つは「やってみよう」という力である。よし、やってみようと自分で自分を励ます力です。もうひとつは「やってみたってどうせだめさ」と、やろうとする心を抑える力である。このふたつの力が人生においていつも働いており、そのためにわれわれは苦労するのだ。」

私は、この文章の前後も読んでいませんし、文脈がどう成り立っているのか正直わかりません。けれど、羽仁さんは、学校の教育者ですから、教育者として書かれたと推測するときに、一つ思い出したことがありました。

私の友人に塾の経営者がいて、出来る子は出来る子なりに、出来ない子は出来ない子なりに、教えるのがモットーだと言っていましたが、ある時、どんな子どもに教えるのが大変なのか?と聞いた時に、彼は「自分に自信を持っていない子ども」と即座に答えました。良い意味での自信を持っていない。つまり、子どもといえど、これまで生きて来た中で、成功したこともあったであろう、失敗した事もあったであろう。しかし、あまりにも成功することが少なく、少なすぎるゆえに、どうせやっても無理と最初から、自分で自分を決め付けている子を、「やってもむりさ」と思っている子を、やればやっただけの成果が出るのだと思わせるまでの努力が大変だというのです。だったら塾に来る前に、うちの子どもの教会に来させればいいじゃないと話したら、笑って、そうかもねと言っていました。

この話は何も、子どもの話しをしているわけではありません。聖書の御言葉の話しです。「求めなさい、そうすれば与えられる。」とはもっと具体的には、求め続けることです。探しなさいとは探し続けることです。門をたたきなさいとは、門をたたき続けることです。

子どもを育てるとは、一人の人間を育てることです。しかも、親として関わりを持てるのは本当に素晴らしいことです。けれど、時々親は、子どもも「一人の人間」であり「いのち」を持っていることを忘れてしまうことがあって、それは特に親の話を聞かないとか、聞いてもやらないとか、やっても適当とか、ついイライラして「なんであんたはそうなの!」とか「なんで出来ないの!」という言葉をかけている時かもしれません。皆さん、お気をつけあれ。「やってもむりさ」と思ってしまわない子育て、求めれば、必ず与えられるという粘り腰の心を成長させる子育てを目指していきたいものです。皆さん、そうはいっても「やっても無理!」(笑)と思わないでくださいね。 今年も元気に頑張っていきましょう。

2018年 12月

「学者たちはその星をみて喜びにあふれた」 マタイによる福音書2章10節

キリスト教の暦では、一年の始まりはクリスマスの四週間前の週、御子イエスの誕生を待ち望むアドヴェントからとなります。2018年は12月2日(日)からが新しい一年の始まりと考えるわけです。クリスマスは12月25日です。クリスマスというと24日の夜、クリスマスイブが、一番の盛り上がりと感じている方もいると思いますが、正確には当時のイスラエルの考え方は、日没で一日が終わり、そこから新しい一日が始まりますから、24日の日没と共に25日になるわけです。つまり、私たちがイブと考えている時間帯は既に25日になっているわけです。私たちは夜の12時に日にちが変わると思っていますから、なにか慣れない感覚ですが、正確な時計も無かった時代にはとても分かり易い考え方であったと思います。

更に、クリスマスの時期は、御子イエスの誕生からがスタートですので12月25日からがクリスマスです。私たちの国では25日が過ぎるとお正月一色になってしまいますが、実際はその時期こそクリスマスの時、年が明けて1月6日までクリスマスは続きます。キリスト教国と呼ばれる国では新年もクリスマス行事の中に入るわけです。この感覚も日本人の私たちにとっては、変な感じではないでしょうか。

なぜ1月6日なのかというと、25日の夜に、東の国で夜空を見ていた占星術の学者たちが、不思議な星を見つけ、その星を調べたところ「ユダヤ人の王」が誕生された印であるとわかりました。喜んだ学者たちは、ユダヤ人の王に会って礼拝をするために旅立ちます。凡そ2週間の旅を経て、イスラエルに到着し、1月6日にベツレヘムにいた御子イエスに贈り物を献げ礼拝した。この礼拝をもってクリスマスの締めくくりとされています。絵画や絵本等では、飼い葉おけに寝かされている御子イエスに対して礼拝をしている場面等が描かれていますが、1月6日まで飼い葉おけに寝かされていたとは思えません。恐らくベツレヘムにあった夫ヨセフの実家に向かったのではないかと思われます。

さて、ここで大切なことは、なぜこの出来事がクリスマスの締めくくりなのかというと、1月6日を公現日(こうげんび)とか顕現日(けんげんび)と呼びます。東の国の学者たちはユダヤ人ではなく異邦人です。その異邦人が御子イエスに対して礼拝した、その意味は、御子イエスが全世界の人々に対してその存在を示した時であったと考えられているからです。

私たちは三人の学者と考えていますが、聖書には必ずしも三人とは記されていません。ただ贈り物が黄金、乳香、没薬の三つだったので、三人と考えられてきました。古来伝説では一人は白人、一人は黄色人、一人は黒人とか、一人は若者、一人は壮年、一人は老人であったといったふうにも言われています。いずれにしても、この学者たちは、「その星を見て喜びにあふれ」ました。クリスマスは喜びにあふれる時です。私たちの人生に、私たちに命を与えて下さった神様が直接的に介入して下さった出来事だからです。その祝いの仕方は、国によって違います。日本のクリスマスの喜びは、キリスト教国のような喜び方とは違います。でも何より大事なことはどんな祝い方なのかよりも、「喜びにあふれる」ことです。どんな状況の中にあっても、家族と共に、親子と共に、神の恵みに感謝して、喜びにあふれて、笑顔で暮らすことです。そこに確かな平安があります。喜びと笑顔では喧嘩になりません。毎年一度のクリスマス、でも、2018年のクリスマスは一度しかありません。 一緒に喜んでこの時、過ごしていきましょう。