聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2018年 11月  

「わたしはまことのぶどうの木 、わたしの父は農夫である。」

                  ヨハネによる福音書15章1節

プロヴァンスの贈り物」という映画があります。観られた方もいるかもしれません。ロンドンでプロの金融トレーダーとして活躍していたマックスのもとに、南仏のプロヴァンスでぶどう園を営んでいた、ヘンリーおじさんが亡くなったという知らせが届きます。マックスはおじさんの財産を引き継ぐことになっていたのですが、引き継いだ後は全て売却するつもりでおじさんの家にやって来ます。けれど、子どもの頃に遊んだそのままの風景や、穏やかに過ごした時間の記憶が戻ってきたり、子どもの頃に憧れていたファニーが大人の女性となって登場したり、財産を売却するかどうかで思い悩むのです。

おじさんはぶどう畑を栽培していました。ぶどう畑は決して大きなものではありませんでしたが、マックスの幼馴染でデュフロと呼ばれるぶどう作りの職人が一生懸命にぶどうを栽培していました。二人は再会を喜び合いますが、財産を売却するかどうかで、一時、険悪な雰囲気になったりします。でも、次第にデュフロが超一流のぶどう作り職人であることがわかり、そのぶどう畑のワインは、「ブテック・ワイン」と呼ばれ、市場には出回らなく無名ですが、超高値で取引されるワインであることがわかったりもします。このあたりの話は本筋から少し離れてしまう話ですが、私は主人公マックスを演じるラッセル・クロウの顔立ちが、少しかっこ悪すぎる以外は大好きで、これまでDVDで10回以上は観たかもしれません。良かったら観て下さい。ご家族や夫婦で観るにはすごくお勧めです。

ところで「わたしの父は農夫である」と聖書にあります。英語やフランス語の聖書に記されている「農夫」は一般的な農夫ではなく「ぶどう畑を所有し、そのぶどう畑のぶどうからワインを醸造する農民」という意味がある特別な言葉が使用されています。ぶどうを作るだけの農夫でもなく、そのぶどうからワインまで生産します。その過程を他人に任せないのです。他人に任せたら、安いぶどうと混ぜられてしまうかもしれない。そのようなリスクを無くすために自分達が全て行うのです。だから特別なワインが出来上がり、自慢のワインとなります。

そのようなことを思いますと、「わたしの父は農夫である」と言われた主イエスの言葉がどんなにか意味深いものかと思います。父なる神は、私たちの一人一人を愛するあまり、自慢の独り子である御子イエスをこの世に誕生させて下さいました。そして主イエスを通して、神のどこまでも尽きることの無い「愛」を教えて下さいました。主イエスは御自分のことを「わたしはまことのぶどうの木」と告げました。父なる神が誰の手も借りずに、誰かに任せることもしないで、手塩にかけて育てて下さった、本物のぶどうの木です。そこからどんなに美味しく味わいのある御言葉と祝福と幸せが溢れ出てくることかと思います。主イエスは「わたしにつながっていなさい」とも話されました。私たちは、いつのまにかマックスのように、この世の価値観の中で、お金や財産や、この世の名誉や富を追い求めすぎて、それらとしっかりとつながってしまって、ついに何が本物なのかを忘れてしまってはいないでしょうか。もし、そうかもしれないと思われるなら、いつからでも、どんな状態からでも間に合います。まことのぶどうの木である主イエスとつながることです。本物とつながると、不思議なことに偽物や、混ざりものがよく分かったり、見えてきたりします。私たちは、農夫である父なる神と、主イエスの愛に包まれて、神としっかりとつながって、益々素敵な子育てをしていきたいものです。

2018年 10月

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」
                   コリントの信徒への手紙一 3章6節
「わたしは植え」と告げている人は、主イエスの福音を宣べ伝えたパウロという人です。
パウロに与えられた使命は、異邦人伝道でした。当時、ユダヤ教ユダヤ教徒以外の人々を異邦人と呼び、彼らは神様からの祝福を受けられず、自分達は祝福を受けられる民族であると考えていました。現代でも自分達こそ特別な民族と考えている人たちは、私たちの国を含めて、案外大勢います。それが良いプライドや誇りとなり、互いに尊重しあえると、とても良いと思いますが、プライドが高すぎると差別するようにもなります。主イエスは、ユダヤ教の中にあった差別的な考え方を否定し、ユダヤ人でも、異邦人でも、女性でも男性でも、子どもでも、あるいは病気とか、怪我によって動けない人でも、どんな人も「神様の子ども」と教えられましたが、パウロもそのようなイエス様の教えを受け継ぎました。

パウロは、ユダヤ人もギリシャ人も、民族の差別なく、主イエスの喜びの御言葉を、世界中に宣べ伝えなければならないと感じ、生涯の中で三度の福音伝道旅行を行い、世界各地に出向き、世界共通語であったギリシャ語を駆使し、大活躍して、しかし命がけで、イエス様の福音を宣べ伝えました。この働きがないとしたら、今のキリスト教はなかったかもしれないと言われるほどの実行力でした。最後はローマで、恐らく皇帝ネロの時代に殉教するまで、主イエスを宣べ伝えて生きた人でした。

一方アポロも、主イエスの福音を宣べ伝える働きを熱心に行っていました。特にアポロは話が上手で、人々に感動を与え、多く人々がアポロによってクリスチャンになったと思われます。

ギリシャのコリントという町で、パウロが三年間苦労して伝道活動を行い、やっとの思いで教会を立ち上げ、最初の牧師となりますが、二代目の牧師としてアポロがやって来ました。アポロは話が上手でしたからコリントの人々は喜びました。けれど同時に教会内で、パウロ派と、アポロ派のような派閥争いが起こってしまったようです。その様子を聞いたパウロは、コリントの教会に手紙を書いて「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と記しました。大切なのはパウロでもなく、アポロでもなく、神様を信じること、それが大切だと告げたわけです。

「私は植え」とか「水を注ぐ」ということは、いわば外的な要因です。パウロは、話は上手ではなかったと言われますが、知識もあり文章も上手でした。ですから聖書に沢山パウロの手紙が残されることになりました。アポロは話が上手で人を引き付ける能力があったと思いますが、それによって教会の人々を一つにするのではなく、逆に派閥争いのようになったのは、「自分が、自分が」という思いが強く、例えるなら神様よりも、自分を主張したかったのかもしれません。だから、パウロは植える人もいるし、水を注ぐ人もいるし、でもその全てを含めて、最終的に成長させて下さるのは神様だと告げているのです。

この御言葉は、私たちに謙遜を教えています。能力がある人ほど自分を出したいと思うし、他人の能力の低さにイラつくかもしれません。幼子を育てる時に、自分と同じことが出来ないと怒る親がいるでしょうか。怒らず、むしろ励まし、忍耐することが大切だと思うでしょう。そのように、人は外的な要因をどんなに整えたとしても、本当に成長するのは、その本人の内側から出てくるもので成長するのだと思います。ですから私たちもまた、植えること、水を注ぐことは熱心に、けれど成長させて下さるのは神様であるということを受け入れて、互いに自己主張せず、愛をもって生きていきたいものだと思うのです。

2018年 9月

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」
               ルカによる福音書19章6節
 
 ザアカイという人がいました。この人は徴税人の頭でした。徴税人とは読んで字のごとく、人々から税金を集める人のことを言います。ただ聖書に登場する徴税人は、税金を集めて、自分達のユダヤの国ではなく、支配国ローマへ税金を収める仕事をしていたわけです。ローマは税金を集めるために、自分達が直接ではなくユダヤ人を使っていたわけです。ですから、ローマの手先とも見なされて、仲間のユダヤ人から嫌われていました。しかも財政的には、その仕事によって一般の人々よりずっと豊かな生活をしていたようです。つまり、尚の事、人々から嫌われていました。その頭ですから、ザアカイは最も嫌われていた一人と言っても良いでしょう。

 そんなザアカイが住んでいたエリコの町に、イエス様と弟子たちがやって来ました。人々は喜んで出迎え、イエス様を囲むようにして道に添って人々が集まって来ました。ザアカイもイエス様を一目見たいと思い道に飛び出したのですが、ザアカイは背が低かったうえに群衆が多く、さっぱりイエス様を見ることが出来ません。もし友達がいれば、「ザアカイ、さあ前に来て」という声もあったかもしれませんが、逆に人々はザアカイに意地悪をして、前に出さないようにブロックしていたのかもしれません。

 でも、ザアカイはそんなことでへこたれず、近くにあった桑の木に登りました。そして高いところでイエス様を見ることが出来たのです。ところがイエス様の方からザアカイに声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いた人々は驚きました。ザアカイも驚きましたが、とっても喜びました。木から降りて、自分の家にイエス様を案内して、一緒に食事をしながら楽しいひと時を過ごしたと思います。そんな楽しさの中でザアカイは立ち上がって「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告げたのです。その言葉を聞いたイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と話し、とても喜びました。

 さて、ザアカイのザは、「財産」のザです。人は財産やお金があれば幸せだと思いますか?勿論、美味しい食事も食べられ、好きなことも出来るので幸せでしょう。でも、財産で友達は出来ません。ザアカイは友達がいませんでしたから、きっと寂しい人生を生きていたのではないでしょうか。

 ザアカイのアは「愛」のアです。そんなザアカイの所に、主イエスが愛をもって接して下さいました。これまで誰もそのように接してくれなかったのに、イエス様だけがそうして下さいました。愛こそが人を変える大きな力だと思います。

 ザアカイのカは、「感謝」のカです。ザアカイは主イエスとの愛のある交わりの中で喜び、感謝して、ついに自分の財産よりも大切なものを手に入れました。感謝出来る気持ち、どんなにか大切だと思います。

 ザアカイのイは「生きているっていいなぁ」です。ザアカイはこれまでどんなに頑張っても手に入れることの出来なかった、愛と感謝を体験し、そのような時を過ごし人生の充実とはこういうことかと思ったのではないでしょうか。私たちも主イエスとの出会いによって「生きているっていいなぁ」という気持ちを手に入れて過ごしていきたいものです。

 皆さんの9月も神様の祝福を祈っています。

2018年 7月

「主よ…わたしたちにも祈りを教えてください」 
          ルカによる福音書11章1節

 私の生まれ育ちは、既に、多くの皆さんがご存知ですが岩手県です。田舎町の貧しい家に生まれ、育ちました。私の祈りの原風景は、毎朝、仏壇や神棚に対して祈りをささげている母の姿です。毎日の生活に感謝していた姿を思いますし、芸術家の父親も夜になると写経をして、沢山の経を奉納していました。実際の所、とても、仏教的、日本的な環境に生まれ育ちました。とはいえ、恐らく我が家だけがそうだったというわけでもなく、太平洋戦争後でも、昭和30年代頃までの多くの日本家庭が、仏壇や神棚に手を合わせて、祈ることを行っていたのではないかと思います。

 それ以降、日本は高度経済成長時代と呼ばれる社会となり、経済的には右肩上がりの社会を迎え、進歩、発展を遂げて来ました。バブルの崩壊等苦しい時代もありましたが、それでも日本の生活水準の高さは世界有数と言えるでしょう。しかしまた、一方においては、戦争を起こし敗戦を経験したことの影響もあると思いますが、日本は、特に宗教という考え方に距離を置き始めました。医学や化学技術の進歩が、更にそれに拍車をかけていると思います。そして、現代にいたっては「神に祈る」思いから大分遠くなっているのではないかと思うのです。

 話は変わりますが、天に召されて20年となりましたが、キリスト教作家で三浦綾子さんという方がいます。三浦綾子さんの本に「心のある家」というタイトルの、エッセーがあります。祈りについて記してあります。ある日のこと、ご主人の光世さんの元同僚3人が三浦さん宅を訪ねて来たそうです。その時、光世さんが食前の祈りを捧げたそうです。祈りが終わって目を開けたら、三人が3人とも、涙を流しておられたとありました。光世さんの祈りに感動したからでした。綾子さんは、当初彼らがなぜ泣いていたのか分からなかったそうです。光世さんは「今日も貴重な命を与えられたことへの感謝」、「その命を養う食べ物を与えられることへの感謝」、「それらを造り給う神への感謝」、「客人に対する健康と平安」を祈ったに過ぎないのに、とありました。けれど、同時に、祈りに対して、例えば食事の祈りだけで、年に1,500回以上の祈りとなるので、あまりにも慣れてしまっていて、いつもの事となっていたのではないかとも記してありました。

 現代の私たちが祈りの大切さを忘れているのはちょっと寂しく、残念だなと思います。自分たちは祈りなどしなくとも、生きていけるとどこかで思っているからです。先日、一人の二十歳前の青年が「先生と話をしたい」と言ってやって来ました。たまにやって来ては、私にはわからないゲームの話を沢山して帰っていきます。生き生きと話をしてくれます。それから礼拝堂に一人で行って一人で祈っています。本当は苦しい胸の内を沢山持っている青年です。その姿はとても真剣で、見守る私の方が感動していました。 

 最近、改めて母や父の祈る姿を思い起こします。祈りは「幼子のような心」が求められているとも言われます。私たちはいつのまにか「幼子のような心」から大分遠いところで生きているのかもしれませんし、誰かに、あるいは何かに「感謝する」思いからも遠くなっているのかもしれません。感謝が無くなると、不満や不安、そして、怒りが心を占領します。そしてさらに祈りから遠ざかるのかもしれません。
だから、皆さん、一緒に祈って行きましょう。祈り方が分からないと思う方も教会へどうぞ。

2018年 6月

「空の鳥をよくみなさい。…あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
                     マタイによる福音書6章26節

 今月の聖書箇所は恐らく聖書の中でも最も知られている箇所の一つです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」とあります。

 ここでイエス様が何を言おうとしているのかは明らかで、「思い悩まないこと」です。

 私たちは何に「思い悩んで」いるでしょうか。一つは、私たちは消費社会文化の中で生活しています。テレビのコマーシャルは、何度も繰り返しながら、「この品物を購入すればあなたは幸せになれる」と訴えかけているようなものです。ですからその甘い言葉に乗って、様々な物を購入しては一瞬の幸せを感じるのですが、しかし更に新しい何かが欲しくなり、また購入するといった繰り返しをしているようなものです。わかっていてもやめられない状態です。

 トルストイという小説家が「人にはたくさんの土地がいるか」という童話を記しました。ある農家が自分の土地が欲しくて、頑張って貯蓄してわずかな土地を購入しました。そこで作物を作り、売って少しの収入を得て幸せでした。けれど、いつのころからか、もっと広い土地が欲しいと思い、更に頑張って働き、もっと広い土地を購入しました。とても幸せでした。家族も大満足です。でもその農家は、もっと広い土地があればもっと幸せになれるとばかりに、二度も、三度も土地を購入するうちに、とても良い話を聞きました。少し遠くだけれど、とても安くて広い土地があるというのです。喜んで詳しい話を聞くと、「日の出から日没の時間内に歩いた分の土地はあなたの土地」と説明されるのです。主人は大喜びで準備して日の出から歩き出しました。相当歩いて横に曲がり、お昼を取り、更に歩き、もうギリギリかなというところまで歩いて曲がって、出発点を目指しました。けれど、欲張りすぎたのか日没まで本当に時間がありません。主人は一生懸命に走って戻りました。そして、あと少しというところまできて力尽き、倒れて死んでしまったというのです。ゴールで待っていた人々は、主人の遺体を埋葬するために、体に合わせて地面を掘り、つまり二メートルほどの幅と深さで十分でした。という言葉で終わるのです。皆さんも、子どもの頃に読んだことがあると思います。
改めて人の欲とは限りないものだと思います。

 とはいえ、イエス様は現代の消費文化社会に対してだけ「思い悩むな」と告げているわけではないでしょう。何よりも私たちは「人間関係」で悩みます。家族のこと、夫のこと、妻のこと、子どものこと、仕事のこと、いつも、ずっと悩んでいるかのようです。

 なぜ悩むのでしょうか。「今の、この状態が良くない」と思っているからです。「今の、この状態が満足ではない」からです。私たちはだから頑張れるという一面もあります。良い状態にしようと頑張るのです。では、いつのどの状態が満足なのでしょうか。恐らく人間関係にしても「満足」と想像していた状態になったとしても、その時には「この状態は満足ではない」と思うのではないでしょうか。

 だから大切なことは、今、この時を「満足して生きる」ところに幸いがあるように思います。幸せは自分のすぐそばにあります。そして思っているよりずっと簡単に自分のものになるのです。その秘訣は「思い悩まない」ということなのだと思うのです。

2018年 5月

「私は良い羊飼いである」    ヨハネによる福音書10章11節


 「私は良い羊飼いである」とイエス様が話されました。2000年前のイエス様の時代では、羊飼いはポピュラーな職業だったと思います。ですから聞いていた人々にとってとても分かり易かったと思います。しかし、私たちが生きる日本社会では、羊飼いを想像するのは難しいと思います。ですから補足が必要ですが、私も具体的に良く知っているわけでもありません。想像するしかないのですが、まず羊は、人々にとって大切な財産でした。羊のミルクを飲んだり、ラム肉を食べたりするだけでなく、羊の毛はウールのセーターや毛布、敷物、ガウン等になったでしょう。皮は袋、ベルト、靴、衣服となり日常製品に欠かせない大切な個所です。皮から出るオイルは薬や化粧品ともなったようです。骨はナイフにもなり、良質の出汁として使用されました。更に、山羊などと比較すると、大人しく飼いやすかったと思われます。群れて行動しますし、人の声をよく聴き分ける耳もありました。羊の餌となる牧草地帯の多くは、水が不足しています。時々オアシスのような水場があり、そこで人も羊も水を飲んで休憩したようです。ですから、水飲み場はいつも混乱していたかもしれません。羊の群れがいくつも混じってしまうことも普通にあったようです。でも、羊飼いは少しも気にせずに、充分に水を飲ませたら、声をかけると、その声を聴き分けて、自分達の羊飼いの所に従っていくのだとありました。それほど、羊は耳が良かったのでしょう。

 けれど、同時に羊には特別な武器がありません。襲われたら逃げるしかないのです。ですから、羊が生きていくためにも羊飼いが必要でした。襲うのは野生の動物だけでもなく、財産ですから人が盗みにやってきます。そのような外敵から自分の体を張って守る羊飼いが「良い羊飼い」と言われたのではないでしょうか。逆に野生の熊とかに襲われて、自分だけ逃げてしまうような羊飼いがいたとしたら、良い羊飼いとは言えないでしょう。

 以上の事柄から見えてくることは、1、羊は弱い 2、だから羊飼いが必要 3、でも、とても価値があるという三点です。そして、イエス様が「私は良い羊飼いである」と言われた時の羊とは私たちのことです。

 私たちは弱い存在ですが、羊が一匹ではとても生きていけないように、私たちも本当の所は一人では生きていけません。羊は目が悪いと言われていますが、私たちも将来を見通すしっかりとした目を持ち得ているでしょうか。人の言葉に傷ついたり、傷つけたり、裏切ったり、裏切られたり、人の態度や言葉に翻弄されながら生きているのではないでしょうか。だから、そのように揺れ動く私たちのために、羊飼いが必要です。しかも、良い羊飼いが必要です。私たちの生涯を支え、守って下さる良い羊飼いです。私の父親は5年ほど前に召されましたし、母親は認知症です。親はいつまでも元気ではありません。いつか、こちら側が支える時がやってくることを忘れてはなりません。だからこそどんな時でも支え、導いて下さる良い羊飼いである方に「親替え」をする必要があるのです。更に、良い羊飼いとしてのイエス様は、私たちがどんなにか価値がある存在かということを知っておられます。私たちはそれぞれに与えられたタラント(才能、能力という意味)があります。頭脳明晰な方もおられますし、体力には自信がある方もいるでしょう。手先が器用な方、包容力がある方、計算は任せておけという方もおられるでしょう。何もないと思われている方、おめでとう。私と一緒で、あなたには「それでも神様に用いられている」と言える素敵な言葉が準備されています。

 いずれにしても良い羊飼いは、私たちの価値を良くご存知です。私たちが自分で知らない価値までご存知です。だから、この方と共に生きていきましょう。この方の支えと御守りの中で、私たちは安心して過ごしていけるのです。

2018年 4月

「子供たちをわたしのところに来させなさい。」…そして、
子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 
           マルコによる福音書10章14〜16節

 既にご存知の方も多いかと思いますが、私の出身は岩手県です。牧師になるための神学校を卒業して、初めて赴任した教会も岩手県の花巻教会という私のほとんど地元の教会でした。花巻教会に凡そ8年おりましたが、その頃、巷で盛り上がっていたことの一つに、岩手県出身の力士で、久しぶりに幕内に入った力士がいて、栃乃花という名前でした。明治大学相撲部出身でイケメン力士でもあり、当時はかなり人気がありました。好成績を収めて岩手に帰京したときには、地元ニュースでは一番先に放送されて、小さな子供たちを連れた親御さんが大勢集まっていました。是非、栃乃花に抱っこしてもらいたい。そんな思いだったろうと思います。

 イエス様の周りに集まってきた人々も、それぞれ子供たちを連れてきていました。人々の願いはイエス様に子供たちの頭に手を置いて祝福して頂きたい、また抱きあげて祈って頂きたい、という願いだったと思います。
ところが、イエス様の周りにいた弟子たちはその人々を叱りました。イエス様は忙しいからとか、そんな面倒ことをイエス様にお願いするものじゃない、そんな思いで接したのではないでしょうか。けれどイエス様はその様子を見て、「憤り」弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させない。」
 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださいました。

 さて、ここで大切なのは、子供を連れてきたのは「人々」であったということです。人々とは、母親でもなく、父親でもなく、勿論そういう場合もあると思いますが、地域の「人々」が子供たちを連れてきたというのです。その姿は、子育ては「地域の責任」という思いが昔からあったことを連想することが出来ます。

 現代社会、特に首都圏に住む私たちの中に、子育ては地域の責任という考え方がどこまで育っているでしょうか。むしろ核家族化が進み、情報は遮断され、プライベートが大切にされます。昔は地域に「子供会」があって、そこに集う子供たちは、年齢を超えて自然に遊んだり、集ったり、虫取りに行ったり、魚釣りにいったり、自転車を教わったりしながら、いわゆる社会性を学んだのだと思います。社会性とは、つまりは人間関係を学んだということです。子供の頃にこそ、健全な「人間関係」の中で生きることがとても大切だと私は思います。特に就学前の子供たちにとってはとても大切だと思っています。

 そんなことを思いますと、勿論、家庭だけで子育ては出来ず、けれど、幼稚園だけでも子育ては出来ません。大切なのは、「関係」です。皆さんのご家庭と、幼稚園と、父親と、母親と、ご家族と、園の先生方と、そして、友達とが、みんなが一緒になって、いわばゴッチャになって、そこで素敵な「人間関係」を作り上げることがとても大切なのだと思います。行政がどんな目的で、あるいはどんな言葉でもって、「子育てとは何か」とか、「自主性を重んじよう」という言葉を用いるとしても、もっと大切なものがあるのです。

 人は一人一人が生きていて、命があって、だから、何かの型にはめることなど出来ません。イエス様が無条件で、無尽蔵に子供たちを愛されたように、子供たちの心の中に、生きる喜びがほとばしるようにと願いながら、2018年度も、皆さんと一緒に歩めたら良いなと思っています。