聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2018年 2月 

「愛は、すべてを完成させる絆です。」コロサイの信徒への手紙3章14節


 最近、私がハマっている本に『ジブリアニメで哲学する』(小川仁志著 PHP文庫)という本があります。哲学者の著者が宮崎駿監督のジブリ映画を哲学的な観点から記しています。とはいえ、決して難しい文章ではなく楽しく読めます。例えば、「風の谷のナウシカ」という映画がありますが、その中で「風」とは何か?「虫」とは何か?「自然」とは何か?という表題をつけながら、風や虫、自然について考えています。ナウシカの映画が描かれている背景には、人と人との大きな争いがあって、その為空気が汚染され、普通に呼吸すると肺がやられて死んでしまう程に、空気汚染がひどい状況となり、わずかに「風の谷」だけが、風の流れのおかげで、防毒マスクをしなくても大丈夫なようになっているという設定です。

 これまでの近、現代で人間が築き上げてきた文化は、どこかで自然と対立するようにして成立してきた文化ではなかったかと私は最近特に感じています。田舎の静かな田園風景とは、人間が一生懸命に自然を開拓して、畑を作り、水田を作った究極の人工物だと説明された方がおられて、なるほどと納得したことがありましたが、それでも畑や、水田は、自然と共にあったと思います。けれど、いつの間にか、そこで採れる農作物に、農薬が使用されたり、DNAが操作されたりして、自然とは離れて行ってしまっているように感じます。つまり、自然と共存出来なくなってきているのではないか?と思うのです。人間の精神的な疲れや、ある種の病気は大自然の土にまみれるだけで良くなる、土はそういう力を持っているとも言われます。畑仕事や、自然と共にいる時、私たちはとても気持ち良くなり、ストレスが減退していくことは皆さんもよくおわかりでしょう。著書の中にも、「自然との絆を取り戻すことさえできれば、自然は本来の働きをしてくれます。」とありました。聖書には人間が自然を管理することを神様から任されているように記されている箇所がありますが、それを人は、長い間、支配することと捉えて来たのかもしれないとも思っています。私たちは自然を支配して、人間の好き勝手を行って、しかし、それは逆に、人がとっても生きづらくなってきているとしたら、私たちの自然に対する管理は間違っていたのだと思うのです。例えば原子力の使用などにも深く関わりがあることではないでしょうか。

 私たちは、神様から命を頂き、地上での生活を過ごしていますが、それと同じように動物も、昆虫も、魚も、植物も、皆命があり、そして皆が同じ地上を生きているのは、大切な意味があると思います。そして、支配や争いの中からは互いが互いを大切にする絆は生まれてきません。絆とは「つながり」です。自然とつながりあう、しかし、更に言えば、自然に対して、私たちは常に自然に従うしかないのです。自然のほうがずっと大きく力があることを忘れてはなりません。

 今月の聖書の御言葉は「愛は、全てを完成させる絆です」という御言葉です。私たちと繋がるのは、自然だけでもありません。何よりも、人と人が繋がっていることが大切です。自然は自然だけでも形成されていくでしょう。でも人は一人では生きていけません。だから、家族を求め、人と人が共存しあい、社会を形成しようとします。その社会の中で、恐らく最も大切なものは、「愛です。」聖書の中に、「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」とあります。「その中で最も大いなるものは、愛である。」とも記されています。信仰よりも、希望よりも、愛が人と人を、そして人と神を繋げるのだと思います。私たちも、この3学期、繋がりながら、愛を持って生きていきましょう。

2018年 1月

見よ、わたしはあなたと共にいる  創世記28章15節
                                 
 新年、おめでとうございます。2018年が始まりました。1月の聖書の御言葉は「見よ、わたしはあなたと共にいる。」です。この言葉は旧約聖書創世記に記されています。創世記にはユダヤ教キリスト教イスラム教からも「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが登場します。アブラハム夫妻が願って、願って、与えられた独り子がイサクでした。イサクには双子が誕生します。エサウヤコブと言います。双子ですが、エサウが長男、イサクが次男です。長男と次男の最大の違いは、長男だけが父親の財産を受け継ぐ権利があったということです。ですから、双子でしたがエサウだけが財産を受け継げたのです。ところが、家族のそれぞれの思惑も絡み、父親のイサクは長男のエサウに家を継がせようと思っていましたが、母親のリベカは次男のヤコブにと願っていました。そこでヤコブとリベカは相談して、年老いて目が見えなくなってきていたイサクをだまし、「わたしがエサウです」と言って信じさせ、ヤコブが、長男にだけ与えられる祝福を受けてしまいます。そのことを知ったエサウは激怒して、いつか、弟のヤコブを殺してやろうとさえ考えるようになり、ヤコブはリベカに勧められて、止む無くお嫁さん探しという口実で旅に出ることになります。

 その旅の途中、ハランという場所で野宿をしていた時に、ヤコブは夢を見ます。その夢で主なる神が現れて「わたしはアブラハムの神、イサクの神、主である」と告げるのです。そして「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、あたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」と告げました。すなわち、長男として受け継いだ祝福は取り消されることなく、しっかり活きていて、ヤコブが大いなる神の祝福を受けるのだと神が伝えて下さったのです。この出来事にヤコブはとても力を得て、それからの長い旅の人生を力強く生きて、その後、20年以上経ってから、父イサクの土地へ戻ることになります。その時、既に、ヤコブには12人の子どもたちがいて、この子どもたちがイスラエル民族の基となっていくことになります。

 皆さん、「感情免疫力」という言葉をご存じでしょうか。私たちは心で生きています。心の感情で生きています。感情は時に、自分でも思いがけない行動に向かわせたり、コントロールするのが難しかったりします。特に相手の行動や言語によって、自分の感情が大きく変化してしまうと思っている方、案外多いのではないでしょうか。夫や、妻や、家族や、友人の顔色に必要以上に気を使っているなと思っている方、多いのではないでしょうか。すぐ怒る人とか、イライラする人の感情に引きずられたり、振り回されたりしている方、多いのではないでしょうか。でも後でよく考えてみると、自分にはなんの関係も無かったり、相手は自分に対して何も思っていなかったことがわかってホッとしたりする経験があるのではないでしょうか。他人の感情に振り回されないように心がけることを「感情免疫力」を強めると言うようです。

 ヤコブが、エサウや、父イサクから非難されて、傷心で旅立ちましたが、そこに主なる神がおられて、「見よ、わたしはあなたと共にいる。」と告げた時、ヤコブは自分をしっかりと取り戻しました。私を造られ、命を与えて下さった方が、私と共におられる。そう信じられるなら、あなたは大丈夫です。何があっても主がわたしと共におられる。安心して「感情免疫力」を強めて、この2018年も過ごして参りましょう。

2017年 12月

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
                    ルカによる福音書2章14節

 今から凡そ25年程前のことです。クリスマス直後から私はパリにいました。ある修道会が年に一度開く、ヨーロッパの大きな集会に参加していました。世界中から数万人の若者が集まり、パリの様々な教会の礼拝に参加しました。その時、私たち日本人は10名程度でしたが、世界の一番遠いところからやってきた方々と紹介されました。教会の礼拝は世界中の言葉で聖書が読まれ、共に賛美し祈りました。私は日本語で聖書を読み、一万人もいたかもしれない人々の前で話をさせて頂きました。勿論日本語で(笑)。プロの通訳がそれを英語にして、英語から各国の通訳が自分達の言語に直して伝言ゲームのようにして人々に伝えるのです。実質的には私は3分位しか話しませんでしたが15分位かかりました。良い思い出です。多くのフランス人と友達になり、ロシア人と一緒に就寝し、ポーランドの司祭とも友達になりました。来年はポーランドでこの集会を行うので、是非来てくれと招待状まで頂きました。でも、全て自費参加でしたから、結局願いは適いませんでした。(笑)

 ヨーロッパは1月6日までクリスマスです。(勿論、日本もそうなのですが)12月31日の夜に特別な礼拝を守り、礼拝の途中に新しい年となって、それから教会の大きな集会室に集まって、あたかも「国別対抗歌合戦」のようになりました。私たちも日本の讃美歌を歌いましたが、でも全く敵うわけもなく、私の思いでは、最も力強く最も凄いと思ったのは、フランスのメンバーではなく、イタリアからの人々だったように思います。彼らは肩を組むようにして、本当に嬉しそうに、楽しそうに、喜びが爆発したかのように、笑顔で声高らかに歌っていました。国民性というのでしょうか。本当に凄いと思いました。
天の大軍が現れて御子イエスの誕生を声高らかに歌ったこの歌「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」どんなにか心のこもった、また喜びが爆発したような、羊飼いや、寝静まっていた動物たちも飛び起きる程の歌声ではなかったと思います。なぜそんなに喜ぶのか、御子イエスが誕生されたからです。私たちのこの地に平和をもたらそうとして、神様のご計画が動き出したからです。天に栄光は既にあります。だから「地に平和」を願ったのです。「御心に適う人にあれ」とは、神様は全ての人々を御自分の思いに適うそのような一人ひとりにして下さるという意味です。

 私達の世界は未だ、まことの平和が来ているとは言えません。平和どころか、どの国も賛美ではなく、軍備に夢中です。軍備に夢中になっている人々がこの世の指導者と言われているのは、とても皮肉です。軍事力では決して平和はもたらされません。でも、だからと言って全世界の武器を無くしても平和がもたらされるわけでもありません。人の心に怒りや、悲しみや、悔しさ、妬みと言ったものがある限り、平和ではないのです。本当に平和がもたらされるために必要なのは心の問題です。どんな時も「互いに幸いを喜び、隣人を愛する心、」で溢れることが求められているのだと思います。神様が、御子イエスをこの世に誕生させた目的は、私たちが本当に幸いになるためであり、地に平和がもたらされるためだと私は信じます。だから、私たちはどんなことがあっても、「幸い」に生きていきましょう。

 「いと高きところには栄光、地には平和」とクリスマスのこの時期だけでもなく、毎日をそのような心で、そのような歌声で、神を賛美し、隣人を愛していきましょう。

2017年 11月

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」

               マタイによる福音書18章20節                        
 バーバラ・テイラーというアメリカの牧師は「健全な家族とは、瓶の中を転がる小石のように、互いにこすりあいながら尖った角を丸くしていく場所になります。」と教えています。「瓶の中」という表現は少し難しいですが、例えば川の上流の石は角ばっているものですが、下流に流されていくにしたがって、どんどん丸くなっていることはどなたでも分かることです。つまり、丸くなるためにも、「健全な家族の健全な争い」が必要なのかもしれません。

 でも、「健全な争い」とはどんな争いなのでしょうか?以前、礼拝の説教でも、教会の集会でも話題にだしましたがC・Sルイスという先生が記した「天国と地獄の離婚」という話をしました。気が付くと男の人が寂しい町を歩いていて、なんだか薄ぼんやりした町だなぁと思いながら進んでいくと、人影もまばらで、駅にいっても殆ど人がいなく、町にも小さなタバコ屋や、古本屋があって、古本は埃をかぶった「アリストテレス全集」が並んでいたりするのです。でも、バス停があって、そこには人が沢山並んでいて、自分も並んでバスを待ち、バスに乗って、隣の人と話をするのです。「不思議な町ですね」、「あ〜ハイ、この町の人は、隣同士で住むとすぐに喧嘩が始まって、怒ってこんな隣に住んでいられるか!と怒って、両方とも引越しちゃうんですよ。でもその引越し先にも、隣の人がいて、すぐ喧嘩をして、こんな隣に住んでいられるか!と怒って、また、相互に引越しちゃうんですよ。そして、その先でも同じことが起こるのでいつの間にか、町の中心には誰も住まなくなって、町のはじ、町のはじに住むのです。」と話してくれました。「そうですか、ところでこの町の名前はなんというのですか?」と聞いたら、「地獄」といいます。と答えたというのです。とても印象深いシーンでした。

 さて、皆さん、「健全な争い」の逆の「健全でない争い」は良く分かると思います。口を利かない、ということです。腹を立てて、「夫と一週間も口を利いていません」と言われた方が、前にいた教会幼稚園のお母さんにはおられました。ドレーパー記念幼稚園では聞いたことがありません(笑)。口を利かないとは、互いをいない者、いない人として振る舞うということでしょう。とても寂しいし、とても傷つきます。学校や社会では「いじめ」と言います。では、逆に口を利いても、その口から出て来る言葉が、その人を傷つけ、悲しませ、力を奪うとするなら、それも「健全でない争い」であり、それも学校や社会では「いじめ」と呼ぶのではないでしょうか。

 それなら「健全な争い」とはどんな争いなのでしょう?私が講演する時の定番の話ですが、石油スト―ブの石油が無くなりました。新婚家庭なら、「私が入れて来ますからあなた待っていて」と妻が言うと、「なにを言っているか、お前こそ忙しいから、俺が入れて来る」と夫が言うのです。「イエ、私が」、「イヤ。俺が」と争っている姿は、石油が無くともそのうち暖かくなるのではないですか。ところが、結婚5年、10年となると、「あんた、ストーブの石油入れて来て」「じょうだんじゃない、お前こそ行ってこい」と争っているうちに、互いに風邪をひいてしまうというのは、前の幼稚園の夫婦には数組いたかもしれません。皆さん、ドレーパー記念幼稚園で本当に良かったですね。

 というわけで「健全な争い」を続ける家庭では、子どもたちも、どう生きるとイキイキするのか自然に了解して笑顔で元気になるのです。そんなあなた方のご家庭にこそ主イエスが一緒にいて下さるのです。

2017年 10月

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」  創世記12章4節

 アブラムとは後に「信仰の父」と呼ばれ、多くの人々から愛され続けているアブラハムのことです。イスラエルの歴史の最も根源的な人と言っても良い人です。その最初はこんな言葉から始まります。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…』」

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」アブラハム75歳の時でした。

 アブラハムはこの時、「わたしはもう歳ですから、勘弁して下さい」とか「別の人にしてください」とは言いませんでした。神様の御言葉だけを信じて、妻のサラを連れて、住み慣れた場所から旅立ったのです。全てはそこからが始まりです。

 さて、あなたは一体何歳の時に、人生の旅立ちを迎えたと思われますか?何をもって「旅立ち」と定義づけるかによっても違ってくると思いますが、基本的には、自分の力で生きていこうとした時が、その時だとしましょう。そう考えるとすれば、私は高校卒業後です。その後の大学の学費も、神学校での学費も全額を自分が働いて支払いました。もっとも高校も奨学金で通学し、更には中学からずっとバイトもしていましたけれど、親元からの生活ですから自分の力で生きていたわけではありません。でも高校卒業後からは自力です。自分としては体が壊れるほどに働き、精一杯に生きました。その結果、本当に体が悲鳴を上げ、精神的に限界を感じ、無力感だけが残りました。世の中、誰も支援の手を差し伸べる人もなく、世の中は冷たいものだと思っていました。このようになっていくのは、「世の中が悪い」と思い、「生まれた時代が悪い」と思い、全ては上手くいかない理由を、自分以外に原因を見つけて「闇の中」を生きていました。20代前半の頃です。けれど、そう思っている間は何も解決しなければ、何の進展もありません。全ては自分以外の何かが「悪い」から今があると思っていたからです。結局のところ、私は少しも人生を旅立っていなかったのだろうと思います。多くの人や物に依存し、外的要因によって人生が変わるのだと思っていたからです。

 「信仰の父」と呼ばれるアブラハムも旅立った後、何度も生きていく為の危機を迎えます。その度にアブラハムならではの考え方で、つまりはとても人間臭いアイデアと知恵で乗り切ろうと頑張るのです。けれど、それが必ずしも成功するわけではなく、時にはヘマをしながら、でも少しずつ人間的に成長を遂げていく様子が聖書に記されてあります。そして、ついに自分達の最大の悩みであった子どもが授からないという難題が神様の約束通りにアブラハム100歳の時、妻のサラ90歳の時に愛する独り子のイサクが誕生するのです。その時アブラハムはもはや神以外の何物にも頼らないと決意したのではないかと思います。

 私の人生の旅立ちも、今から思えば、決して高校卒業後ではありませんでした。主なる神と出会い、神以外の何物にも依存しなくて良く、神以外の全ての権威や権力から自分は解放されたのだと思い知らされた時だったと思うのです。その時20代後半となっていました。そこから不思議なほどに、幸せと平安が私の中に訪れます。
 
 皆さん、あなたの本当の旅立ちは何歳だと思われますか?

2017年 9月

「求めなさい。そうすれば、与えられる」  マタイによる福音書7章7節                      
 
 ゴスペルと呼ばれる歌が流行っていると聞くことがあります。「ゴスペル」というジャンルの歌と考えることも出来ますが、その意味は「福音」という意味です。福音書の福音で、「良き知らせ」とも訳せます。例えば今月の聖書箇所はマタイによる福音書の7章からですが、福音書とは「良き知らせ」を伝えている書物と言うことも出来ます。聖書は「良き知らせ」で満たされているのです。

 ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエス様が教えておられるわけですから、これも良き知らせとして受け止めて、「そうだな、いつも求めて生きていこう。そうすれば、与えられるのだから」と思いながら生きていくことです。それだけで十分なのです。けれど、そんなに簡単にはいかないんじゃないの?と考えてしまう私たちがいるのではないでしょうか。どうしてでしょうか?心のどこかで「求めたって、与えられない」って思っているところがあるからかもしれません。

 例えば、風邪をひいて医者に行ったとします。大抵の場合、医者は薬を最後まで飲みなさいと伝えます。不思議な事に、自分の子どもが風邪をひいて、医者に連れて行った場合、そう指導されますと親はもう大丈夫だなと思っても、少々子どもが嫌がっても最後まで飲ませるのではないでしょうか。でも、自分のことになると、一度、二度、飲んでみた、そしたら熱が下がった。もう大丈夫、薬を飲むのは止めようとするかもしれません。医者の立場からすれば、どうしようもない患者と言われるかもしれません。本当に治ったかどうか、自分で決めることが出来ると、私たちは思っているところがあります。そのようにして、自分で決められると思っていると聖書が「求めなさい。そうすれば、与えられる」とあっても、自分で「無理!」と思えばそこでもう意味がなくなってしまうのです。だって自分で無理と決めているからです。

 ところで、私の友人の一人が個人で塾をしています。その彼に、どんな子どもに教えるのが一番大変か?と聞いたことがありました。彼は即答で「自分に自信を持っていない子」と答えました。つまり最初から、どうせやっても無理と、自分で自分を決め付けている子に対して教えるのが大変だというのです。やれば、やっただけの成果が出るのだと思わせるまでがとても大変だというのです。でも、この話は何も、子どもだけの話しではありません。聖書の御言葉の話しです。私たちの人生の中にあって、いつも晴れの日ばかりではなく、雨も嵐もやって来ます。その雨や嵐に長い間当たってしまうと、より一層「無理感」が強調されてしまうかもしれません。ではどうするのか、私は「求めるとは、神様に委ねようとする決心です。」と話すことがあります。

 でも、同時に神様に委ねることと、諦めることと、あるいは、どうにでもなれ、のような思いとは全く違います、とも話します。神様に委ねるとは、神様以外の他の誰にも委ねないということです。人任せにしないという決心でもあります。誰が何をどう言っても自分はこの思いを持ってと決心していくことです。私の義弟は、今はある大学の准教授ですが、その彼が大学受験の時、目指した大学が最難関であったこともあり、3度受験に失敗して、親戚中からも、母校の先生からも、もう止めてしまえ!と言われていたそうです。でも彼は諦めずに、挑戦し続け、そして合格しました。合格したと聞いた時、母校の先生は、手のひらを返したようになって、胸を張って「私の教え子です」と言ったそうです。今では笑い話です。人の意見や思いに左右されず、主イエスが語る「求めなさい。そうすれば、与えられる」それはあなたにこそ向けられた御言葉なのです。

2017年 7月

「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ」 詩編96編11節                           
 私の故郷、岩手県花巻市で誰が一番知られているかというと、童話作家宮沢賢治だと思います。賢二の妹は、宮沢としという名で、大変優秀で、岩手から上京して日本女子大家政学部を卒業しました。大学を卒業した後、地元の高校の英語の教員として迎え入れられ英語教師をしていましたが、その頃、英語の勉強もかねて盛岡の教会に通い、宣教師から英語で聖書を教わりキリスト教に傾倒していたと言われます。賢二も時々、一緒に通ったと思われます。残念ながらとしは24歳で病死します。

 また、賢二の親友として知られている斎藤宗二朗という人は、花巻最初のクリスチャンと言われています。彼からも色々と影響を受けたのでしょう。宮沢賢二の作品はキリスト教的な教えが随所にみられることが知られています。
宮沢賢二は花巻農業高等学校の先生をしていたこともありましたが、学校を退職して、本当の百姓になると決心して、農業をはじめ、その頃「農業芸術概論」を記します。その著作の冒頭に「世界全体が幸せにならないうちは、個人の幸せはあり得ない」と記してあるのです。この言葉は良く知られていて、今でもお土産屋さんにいけば、色紙やタオルに印刷されて売られています。でも、当初、私はこの言葉に少なからず抵抗感を感じていました。つまり、世界全体の幸福のためなら、個人の幸せについては耐えるとか、諦めなければならないという思想ではないかと思っていたからです。

 賢二が生きた時代は、1900年代初頭です。日本は、日清戦争(1894年)、日ロ戦争(1904年)、第一次世界大戦(1914〜18年)と勝利し、更に朝鮮半島や中国、東南アジアを支配した時代でもあります。国全体が国粋主義へと向かっていた時代でもありました。ですから余計に、私は賢二の言葉の意味を簡単には受け入れられないように思っていたのでした。

 けれど、どうも私の考え方は違っていたようです。賢二が「世界全体が幸せにならなければ」と考えていた世界とは、例えば日本という国だけでもなく、敵対する国でもなく、地球全体の国だけでもなく、地球の命あるものも、命の無いもの(岩とか、水とか、無機物と呼ばれる全て)も、全てが含まれて幸せにならなければならない。更には地球だけでもなく、この太陽系、銀河系、宇宙全体も幸せにならなければならない。そのような幸せの中でこそ、個人もまた幸せに生きられるのだという思想であることを知らされました。そのことを知って、私はとっても感動しました。多くの人間が自分達の幸せを考えていた時代に、自分達の国だけを考えていた時代に、今もきっとそういう時代でしょうけれど、全てのものの幸せを願っている思いに心を打たれました。

 今月の聖書のみ言葉は「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ」という御言葉です。これに続いて「海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え」となります。この詩は、天地を造られた主なる神に賛美を献げ、更にその創造された世界が喜び、歌い、踊れる世界になりますようにと願って記されています。大切なことは、私たちはそのような環境に生きていないと嘆くのではなく、そのような環境と思いと願いを作っていこうとする気持ちではないでしょうか。そんな健やかな思いが子どもたちの心と体を本当に素敵に成長させて下さるのだと思うのです。