聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2017年 6月

「これは主の御業わたしたちの目にはおどろくべきこと」 詩編118編23節                           

詩編118編23節は前後に対の句があります。それを入れますとこうなります。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。」

「これは主の御業」とは、家を建てる時に捨てられてしまうような石が建物の一番大切な石となったことを意味しています。つまり、十字架に付けられてしまった主イエス・キリストのことを意味しています。そうなったのは神様の思いがそこにあって、本当に驚くべきことであると聖書は言っているのです。

ところで、6月4日のペンテコステ礼拝で、新しく大塚平安教会の会員になられた方がおられます。私と同い年の方で、私と前の教会も同じで、これまで15年の付き合いがある方です。ですから、私としてはとっても嬉しいのです。良かったなぁと思っています。でもその方とお話していたら、「本当に、すごい偶然が幾つも働いたような気がするのです。」と話しておられました。というも、最初に私が町田の教会から大塚平安教会に7年前に移ったこと。二つ目にその方は、横浜に引っ越して町田の教会に通うのも遠くて辛いので、近くの教会にも通っておられたそうです。その教会の牧師が私の親友でありました。三つめはその牧師の教会は小さく「伝道所」と呼ばれていましたが、教会が凄く頑張って、ついに、「伝道所」から「教会」になったこと。その教会の設立式の礼拝説教に、なぜか私が指名されてお祝いに駆け付けたこと。そこに先ほどの彼も一緒にいて、あれ〜、なんでここにいるの?いや、菊池先生こそどうして説教しているの?と話題になり、話をしているうちに横浜からさがみ野駅の近くに引っ越しておられたことを聞きました。なぜさがみ野かというと、奥様の実家がすぐ近くだったこと。奥様のご両親が高齢となり、近くに来たかったこと。そこに大塚平安教会があって、私が牧師をしていたというわけです。私が説教していると、凄く落ち着くそうで、私も聞いていてとっても嬉しいなぁと思います。

フランスのスタンダールが記した「赤と黒」という小説があります。主人公のジュリアンは、ナポレオンに強くあこがれつつも祭司見習いのような働きをしていたのですが、ある時、師匠の神父に尋ねました。「先生、これも運命でしょうか。」すると、神父は「キリスト教に運命という言葉はないんじゃよ。あるのは神様の御心じゃよ。」と教えて下さいました。私がとても印象的に残っている箇所です。そうか、キリスト教に運命はないのか。あるのは神様の御心なんだ。そう思えると、何事も素敵な思いをもって受け止めやすくなるなと感じるのです。だから、全ては運命とか偶然ではないと私は思います。そこに主の御業が働いたからこその「今」があるのだろうと思うのです。

新しく教会員となられた方も、私も、この大塚平安教会に偶然やって来たのではないと思います。それと同じように、夫婦になるということも、家族となっているということも、幼稚園で、そして教会で出会っているのも、たまたまだとか、偶然とか、運命ではないのです。これは主の御業であり、驚くべきことではないですか。その驚きが当たり前になっていませんか?当たり前になってしまうと「今日を喜び、祝う」気持ちが薄れてしまいます。私たち頑張って生きても100年です。その100年を毎日が感動の日として受け止めて生きて行きましょう。
6月も素敵な感動が沢山あります。喜んで過ごしていきましょう。

2017年 5月

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」
              コリントの信徒への手紙二 4章18節

 皆さん、GW楽しく過ごされましたか? 菊池家では殆ど、どこにも出かけませんでしたが、レンタルビデオを借りて沢山観ました。「ちはやふる 上の句」、「ちはやふる 下の句」、「植物図鑑」、など娘のお勧めです。「ノッテングヒルの恋人」、「プロバンスの贈り物」、私のお勧め、「リーガル・ハイ」息子のお勧めです。よかったら観て下さい。あ、勿論、自費ですが。(笑)

 さて、レンタルビデオ屋は、本も売っていたのですが、どうしても気になる本が一冊ありました。そのタイトルは『より少ない生き方』青い綺麗な装丁をしている本で、なぜかとても気になって少しだけ立ち読みしたら、聖書の話も出て来るのです。なんだかどうしても欲しくなり、三回目の返却の際に購入してしまいした。今ゆっくり読んでいますが、読み始めてビックリしたのは、著者のジョシュカ・ベッカーさんは牧師でした。どうりで、興味がそそられたわけか〜と納得しました。内容も素敵です。

 私たちは、沢山の物に囲まれて、いつの間にか窮屈に生きているのではないかと書かれてあります。だからものを手放す勇気が必要です、とあるのです。凄く納得です。

 ミニマリズムという言葉を聞いたことがあると思います。本屋さんに行くと何冊もその関係の本が売られていますが、写真を見ますと驚くほどシンプルな生活をされている方々ばかりで、中々写真のようには生きられないと、私は最初から諦めムードだったのです。でも、この本は、自分にもそんな生き方が出来るかも、と勇気を与えてくれます。

 「ものを手放すことで得られるメリット」という項目があり、そこには ・時間とエネルギーが増える ・お金が増える ・人のためになることができる ・自由が増える ・ストレスが減る ・環境にやさしい ・質の良いものを持てる ・子どものいい手本になれる ・人に面倒をかけない ・人と比べなくなる ・満足できる といった具合でそれぞれ説明がされています。とっても納得してしまいます。

 私たちは、いつの間にか沢山の「物」に囲まれて、いつの間にか「物」の整理に追われて、もっと大切なものに心が行かなくなってしまっているのかなと思います。大切なのは、きっととてもシンプルなのだと改めて思わされます。
今月の聖書の御言葉は、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という御言葉です。「見えるもの」に私たちは心が奪われます。毎日、沢山のコマーシャルや情報をテレビやネットで見ながら、それらは「もっと買え」「もっと買え」と私たちにしつこく催促しているかのようです。気が付けば、その誘いに私もすぐ乗ったりするのです。そこに幸せがあるのではないかと思ってしまうのです。でも物が増えても、そこに本当の幸せを見出すことは出来ません。本当の幸せは「見えないもの」の中にこそあるのだと聖書は伝えています。

 「見えないもの」例えば、時間です。時間があると、子どもたちと一緒に遊ぶことが出来ます。例えば、慈しみです。一緒に遊ぶことが出来たなら、そこにどんなにか「慈しみ」の心が芽生えるでしょうか。イエス様は「ものに執着しないことを教えている」とも記してありました。物に執着せず、見えないけれどいつも与えられている神様の愛に包まれて、感謝しながら素敵な5月を過ごしていきましょう。

2017年 4月

「あなたがたに平和があるように。」 ヨハネによる福音書20章19節

 新しい年度が始まりました。この年も聖書の御言葉を記していきます。最近テレビのコマーシャルなどで「ハッピー・イースター」という声を聞くようになりました。私が牧師になった頃は、そんなコマーシャルは皆無でしたから、大分時代も変わってきたと感じます。イースターが多くの方々に知られるようになるのは悪いことではありません。とはいえ、だからこそイースターの意味を正しく知ることも大切だと思うのです。

 今月の聖書箇所はイースターと深く関わりがある箇所です。十字架につけられた主イエスが死んでしまい、弟子たちは全てが終わったと思っていたのに、三日後の日曜日の朝、力を落としていた弟子達の所へ復活された主イエスが現われて、語りかけて下さった御言葉、それが「あなたがたに平和があるように」という言葉なのです。この御言葉を聞いて下を向いていた弟子達が、顔を上にあげて、復活の主イエスと出会い、神様力を得て、この方は本当に私達の救い主であったと確信をもって神様の福音宣教の働きを命がけで始めたからこそ、現代のキリスト教があるとも言えます。イースターとは主イエスの復活を喜ぶ大切なお祭りです。

 すべては「あなたがたに平和があるように」という、この一言から始まったと言っても良いでしょう。キリスト教とは一体何かと言われたら、平和を宣べ伝えています、と言っても良いと思います。

 ではどんな形の平和なのか? 難しいことではありません。自らのプライドを捨てる程の神の愛という形です。主イエスは神の子であったのに、私達を愛するあまり、当時の権力者のワナの中で、十字架につけられてしまいました。でも、それは神様が自らのプライドを捨てた姿でもあったと私は思っています。

 「人を愛することは大切ですよ」と誰もが教えます。幼稚園でも、学校でも、御家庭でもそうお子さんに話されることでしょう。人を愛し、大切にしなさい。では、その「人」とは誰のことですか。友達ですか、兄弟ですか、親御さんですか、それとも先生ですか、勿論皆です。では、改めて聞きます。意地悪な人はどうですか、嫌みをいう人はどうですか、悪いといわれる人はどうですか、特に小さいお子さんには「そう言う人には近寄らないように」と話されることでしょう。それも大切なことです。何よりも自分を大切にしなければなりません。

 そんなことを考えると案外「人を愛すること」は難しいと思いませんか。人を愛することは、自分の時間や、自分自身を少しばかり犠牲にしなければならないことにも気づかれると思います。でも、皆さんは愛する妻や夫の為なら、この可愛い子ども達の為ならどんな犠牲を払っても愛しぬこうと思われるでしょう。

 そうです。自分を犠牲にしてでもと思える場所には愛があって、そして「平和」があるのです。「平和」が無い状態とは、自分が犠牲になるつもりもなく、こんな状態になったのは相手に原因があり、自分は悪くない、と思っている同士の間に起こっている状態と言えるのではないでしょうか。

 「あなたがたに平和があるように」とは主イエス・キリストの宣言のような御言葉です。現代社会、特に最近の世界情勢は、プライドを捨てられず自分は悪くない、相手が悪いと言っている指導者ばかりのように思われます。非常に危険な状態だと心配しています。だからこそ私達の間では、ここに「平和」があると言える状況を示し続けることがとても大切なのだと私は思っています。
 皆さん、今年度も宜しくお願いします。

2017年 3月

「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」
                (詩編27編1節)

 大塚平安教会は2月に「キリスト教の死生観」というタイトルで学習会を開催しました。人が生きるとはどういうことか?生きることの先にある死をどう受け止めるのか?色々な側面から学びました。ある方がこんなことを話されました。「死とは、恐ろしいというより、何か光に包まれていて、輝いていて、栄光の中に引き込まれて行くような感じがします。」わたしはこの言葉を聞きながら、素敵な感性を持っておられるなぁとすっかり感心していました。死とは光に包まれることだ。それは生きるも死ぬも、どちらにしても神様のお守りの中で起こるのだと言っておられたのだと思うのです。

 詩編の作者は「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」と告げています。主なる神様がいつも一緒にいて下さるので大丈夫、という安心感を受ける御言葉です。「『病は気から』の科学」(高田昭和著)という本を時々読むのですが、「安心感は寿命を伸ばす」というタイトルの箇所があります。現在の日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、なぜ、こんなに寿命が延びたのか、一つは、生活環境の良さ、医学の進歩、栄養状態の改善などによるものでしょう。例えば抗生物質の発見などは、かなり決定的であったろうとも言われます。けれど、不思議なことに抗生物質が発見される100年も前から、つまりは19世紀初め頃から、寿命は伸びてきていたそうです。あるいはワクチンも発明される以前から、ワクチンが必要な病気の罹患率そのものが減ってきていたそうです。もっと言うと、早期発見、早期治療と言われるガンをはじめとする様々な病気も、確かに早期発見して、早期治療をするとその後も健康でいられるわけですが、でも、どんな治療にも言えるようですが、そのことによって人の寿命が伸びて来ているのかどうかはよく分からないのだそうです。

 では、なにによって寿命が伸びたのか?高田先生は「安心感」ではないのかと言っています。貧しい地域に高度医療体制が整った病院が出来たそうです。そのおかげで、地域の人たちは恩恵を受けるわけですが、更にそこから広い地域の町や村の人たちまでがかなり健康になったというのです。なぜか、もし何かあったらあの病院に行けばよいと思える「安心感」があるからです。この思いが人を健康にするのではないかと言うのです。

 ですから、逆の「不安」「ストレス」「恐れ」は寿命を縮めるのではないかとも記していますし、実証例も幾つか出されています。続けて「社会や家庭の絆が私達の健康、長寿に深くかかわっている」とも記します。更に、「愛がなければIQも上がらない」とさえ記します。成績の良い子に育てたいと願うのなら、夫婦が愛し合い信頼を寄せること。家族が深い愛情で繋がっていることが必要なようです。
テレビ、マスコミは、毎日のように不安をあおるような出来事を報道し続けます。富士山が爆発するとか、大地震が起こる確率とか、戦争への危機や、環境汚染の実態や、食べ物、飲み物のリスクなど、いかに大変か、毎日ショッキングとも思えるニュースを伝えます。勿論大切なことでしょう。そうならない事を必死に祈らなければなりません。けれど、そんな報道を聞きながら、私たちの心が、日々不安と恐ればかりにさらされているとしたら、やっぱり悲しいと思うのです。

 皆さん、だから、聖書の御言葉をこそ読みたいと思います。「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」どんな状況の中にあっても、主なる神様がともにいて下さることを思い、どんな時でも大丈夫。安心感をしっかり持って生きていきたいものです。

2017年 2月

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」
          (コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節)

 昨年11月にオリエンタルラジオ中田敦彦さんが、「しくじり先生」と言う番組で「星の王子さま」の紹介をしたそうです。残念ながら見ていませんがとても素敵だったと評判のようです。番組を見られた方や本を読んだ方も多いかと思いますが、中田さんの解説によると、星の王子さまが旅をした六つの星の意味は、「人が人生で溺れがちなもののイメージ」だそうです。

 すなわち、「権力」、「人気」、「快楽」、「財力」、「労働」、「学問」です。よくわかります。それらのものが欲しくて、私たちはなんとかしようと頑張っているのではないでしょうか。けれど結局、それらのものが人を本当に幸せにするのか?という問いかけが「星の王子さま」の中に隠れているのだと思います。

 王子さまと友達になったキツネが話しかけました。「キツネが言った。『じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。』」印象的な言葉です。

 大切なことは目に見えない。何が大切なのか?年齢や状況によっても違うでしょう。受験生や学生にとっては偏差値や学力が大切で、会社員であれば会社のポジションが大切で、高収入も必要です。そんなことを考えると、私たちの周囲は数値とか点数、ノルマ、年収といった目に見える形で評価されていることに改めて気が付きます。そして、キツネが言ったように「いちばんたいせつなことは、目にみえない」という言葉にはピンとこないのです。高得点、高収入が幸せを保証しているかのようにも思えるからです。

 でも、本当にそうでしょうか。なぜ、目に見えないものが大切なのでしょうか。一体、目に見えないものとはなんでしょうか。

 上述した「人生で溺れがちな六つ」を合わせると恐らく「欲」という言葉になると思います。人は生きるためには「欲」が必要です。生きようとする「欲」が絶対に必要です。けれどその欲が、貪欲や情欲となり、さらに傲慢となり、悪意、無分別となっていくとき、際限なく人は「欲」に溺れ、自らを潰しかねないのだと思います。「際限ない」とは、「いつも十分ではない」、「このままでは満足ではない」という意味です。だから、幸せではないと思うのです。不満なのです。嫌なのです。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という御言葉の前にこう記されています。「だから、私たちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』が衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」外なる人とは、見えるものです。見えるものはいつかの時点で衰えていきます。自分の体も能力もいつかは衰えていくのです。けれど、内なる人は日々新たにされるとは、教会的に言えば、「信仰」と言えるでしょうし、「信仰」をあえて用いなければ「希望」や「愛」、そしてなによりも「幸せ」です。幸せを求め続けていく人生も良いでしょう。でも求め続けていく理由が「今は幸せではない」から、だとすれば、その人に幸せは永遠にやってきません。

 幸せに生きるためには、どのような状況にあっても尚「今も幸せ」であり、明日もその後もずっと「幸せである」と信じることです。そのように生きていくことです。

 目に見えないけれど大切な「幸せ」を、家族や妻、夫、こどもたちと分かち合うとき、どんなにか幸いを感じることでしょうか。皆で幸せに生きていきましょう。

2017年 1月

「ひかりの子として歩みなさい。」 (エフェソの信徒への手紙5章8節)                                       
              
 皆さん、新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 来月早々、大塚平安教会では修養会という学びの時を持ちます。タイトルが「キリスト教の死生観」です。今、色々な資料を見たり、調べたりしていますが、ネットで「長生きする人の特徴」を調べてみました。凄く沢山出て来て面白いです。1、真面目な人 2、打ち解けやすい人、開放的な人、3、感情が安定している人 4、のんきな人 5、感情を上手に表現できる人 こんな方は長生きする傾向があるそうです。この逆は、1、長風呂の人 2、睡眠時間8時間以上の人 3、平熱が低い人 4、不倫している人 5、早朝から運動する人など・・・。一つ一つの解説は記しませんが、不倫などしていると、きっと神経が休まらないのでしょうか。(笑) 勿論、上記の文章は責任もって記しているわけではないと思いますし、誰にでもあてはまるわけでもありません。わたしは真面目に生きていますけれど、冷え性ですから体温が低いのです。

 でも、他にも色々と読みましたが、あまり気苦労せず、その時、その時を「幸せだ」と感じながら生きられるなら、長生きでも、たとえそうでなくとも充実した良い人生ではないでしょうか。

 「ひかりの子としてあゆみなさい」とは聖書の中でも最も知られている御言葉の一つです。私たちは神奈川県の県央と呼ばれる地域に住んでいます。この地域は都会か田舎かと言われたら、私はやっぱり都会だと思います。都会風に生きていると言っても良いでしょう。なぜ都会風かというと、例えば隣人が何をしているのか、どんな人や家庭なのかがわからないとか、野生の鳥、家畜、魚、カエル、トンボなどのいわゆるペットではない、動物や様々な生き物と触れ合う機会が少ない。つまり、生きていく為の人との関係性が薄く、また生きる命と触れあう機会が少ない状況に住んでいるのが私たち、と言えると思うのです。そんな生活で失われやすいのは「生きる力」です。人はなぜ生きるのか? 生きていかなければならないのか? なぜ命は大切なのか? なぜ命を粗末にしてはならないのか? なぜ人は一人ひとり違っているのか? 更には、なぜ違っていることが大切なのか? そんな大切なことが見事に隠されてしまっているのです。隠されていると人は「不安」になり、「不安定」になってしまいます。そんな不安感が引き金となり、引きこもりや不登校の子どもたちだけでなく、社会的に厳しい生活を強いられている大人もとても多いと思います。

 だから、私たちはどう生きていくのか? 聖書は「ひかりの子として歩みなさい」と教えました。曇りや雨の中で物事を考えると、良い方向へ気持ちが向きませんが、雨が上がり雲の隙間から太陽の光が差し込んでくる、その光を見るだけで自然と力が与えられたと感じるように、私たちを「ひかりの子」として下さる方を信頼して生きることです。子どもたちは無条件に「ひかりの子」です。子どもたちは親から、家族から、先生から、友達から、沢山愛されていることに少しも疑いを持ちません。ひかりの中をしっかりと生きています。そのひかりの中をいつまでも歩めるように、大人もまたしっかりと、「ひかり」の中を生きていきたいものだと思います。

 長生きする人、真面目な人とは、あえて危険と思われることをしない、危険な場所に行かないから、長生きすると説明がありました。その通りだと思いますけれど、私は、危険なことをする必要もないし、危険な場所にいく必要もない、リスクを冒して「愛」を求めたり、「命」を感じようとしたりしなくてもよい人なのだと思います。私たちもそんな必要はありません。わたしたちこそ神のひかりに包まれて生きているのですから。安心して今年も一緒に生きていきましょう。

2016年 12月

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。                              
               (ルカによる福音書1章28節)

 我が家に中学2年生の娘がいます。この間、「お父さん、どっちが小顔になるか競争しよう。」と言われました。娘はどうも自分の顔が小顔ではないことに気が付いてきたようです。定規で計ったらおまけして19.5センチありました。因みに私の顔は22.5センチです。更に因みに広瀬すずは17.5センチだそうです。どうでも良いような話ですが、自分のことが気になる年頃なのかもしれません。でも、気になるとは、イコール気に入らないということです。娘は兄に「お前の鼻はニンニクみたいだ」と言われて大いに傷ついていました。きっと鼻も気に入らないはずで「なんでお父さんに似たかな」とつぶやいていました。

 マリアも丁度、こんな年頃であったと思います。恐らく13歳とか、14歳とか…。けれど、当時としては結婚する年頃でもありました。既にヨセフという婚約者がいました。ささやかだけど、幸せだと思っていたかもしれません。そんな、どこにでもいるような娘であったマリアのところに、天の使いのガブリエルが現れて語りかけました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアは驚き、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。更に天使は続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言うのです。マリアは更に驚いて「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と応えます。けれど、更に天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神にできないことは何一つない」と語りかけました。

 マリアが世界中の人々から愛されている理由は次の応答の言葉にあると私は思います。「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」私には考えられないけれど、すべてのことを受け止めて、私は幼子の母となりますと言ったのです。どうして、マリアはそう言えたのかなと考えてしまいます。そして、考える中にマリアは自分で自分のことをしっかりと受け止めていたのだろうと思うのです。自分で自分の存在を喜んでいたと思うのです。自分で、自分の存在を喜ぶことはなかなか大変です。顔の大きさや、鼻の形だけでもなく、足の長さも、爪の形さえも気にいらないと思う私たちがいます。まして、自分の性格などは本当に気に入らないのです。

 先日もあるご婦人から相談を受けました。「先生、私は人と話すときに、沢山話すと、後で話しすぎたと後悔して、だから話さないと、後で話さなかったと後悔するのですが、どうすれば良いのでしょうか。」あ〜、その気持ち良くわかると思わないでしょうか。けれど、そんな自分を自分でも嫌いと思ってしまう私たちの全てを包み込み、全てを赦し、「そのままのあなたがどんなに素晴らしいか」を知らせるために、神は御子イエスをこの世に誕生させて下さいました。その母としてのマリア。マリアの素晴らしさは、この事を通しても、神様は私を愛して下さり、私の存在を慈しんでくださっていると信じることが出来る「心」を持っていたところです。

 私たちも、私たちの全存在を主なる神様が慈しんでおられることを忘れないようにしたいものです。神の愛が私に、それ故に夫に、妻に、子どもに、家族に、友達に、与えられている喜びを、このクリスマスに改めて感じながら、過ごしていきたいものだと思うのです。