聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2017年 4月

「あなたがたに平和があるように。」 ヨハネによる福音書20章19節

 新しい年度が始まりました。この年も聖書の御言葉を記していきます。最近テレビのコマーシャルなどで「ハッピー・イースター」という声を聞くようになりました。私が牧師になった頃は、そんなコマーシャルは皆無でしたから、大分時代も変わってきたと感じます。イースターが多くの方々に知られるようになるのは悪いことではありません。とはいえ、だからこそイースターの意味を正しく知ることも大切だと思うのです。

 今月の聖書箇所はイースターと深く関わりがある箇所です。十字架につけられた主イエスが死んでしまい、弟子たちは全てが終わったと思っていたのに、三日後の日曜日の朝、力を落としていた弟子達の所へ復活された主イエスが現われて、語りかけて下さった御言葉、それが「あなたがたに平和があるように」という言葉なのです。この御言葉を聞いて下を向いていた弟子達が、顔を上にあげて、復活の主イエスと出会い、神様力を得て、この方は本当に私達の救い主であったと確信をもって神様の福音宣教の働きを命がけで始めたからこそ、現代のキリスト教があるとも言えます。イースターとは主イエスの復活を喜ぶ大切なお祭りです。

 すべては「あなたがたに平和があるように」という、この一言から始まったと言っても良いでしょう。キリスト教とは一体何かと言われたら、平和を宣べ伝えています、と言っても良いと思います。

 ではどんな形の平和なのか? 難しいことではありません。自らのプライドを捨てる程の神の愛という形です。主イエスは神の子であったのに、私達を愛するあまり、当時の権力者のワナの中で、十字架につけられてしまいました。でも、それは神様が自らのプライドを捨てた姿でもあったと私は思っています。

 「人を愛することは大切ですよ」と誰もが教えます。幼稚園でも、学校でも、御家庭でもそうお子さんに話されることでしょう。人を愛し、大切にしなさい。では、その「人」とは誰のことですか。友達ですか、兄弟ですか、親御さんですか、それとも先生ですか、勿論皆です。では、改めて聞きます。意地悪な人はどうですか、嫌みをいう人はどうですか、悪いといわれる人はどうですか、特に小さいお子さんには「そう言う人には近寄らないように」と話されることでしょう。それも大切なことです。何よりも自分を大切にしなければなりません。

 そんなことを考えると案外「人を愛すること」は難しいと思いませんか。人を愛することは、自分の時間や、自分自身を少しばかり犠牲にしなければならないことにも気づかれると思います。でも、皆さんは愛する妻や夫の為なら、この可愛い子ども達の為ならどんな犠牲を払っても愛しぬこうと思われるでしょう。

 そうです。自分を犠牲にしてでもと思える場所には愛があって、そして「平和」があるのです。「平和」が無い状態とは、自分が犠牲になるつもりもなく、こんな状態になったのは相手に原因があり、自分は悪くない、と思っている同士の間に起こっている状態と言えるのではないでしょうか。

 「あなたがたに平和があるように」とは主イエス・キリストの宣言のような御言葉です。現代社会、特に最近の世界情勢は、プライドを捨てられず自分は悪くない、相手が悪いと言っている指導者ばかりのように思われます。非常に危険な状態だと心配しています。だからこそ私達の間では、ここに「平和」があると言える状況を示し続けることがとても大切なのだと私は思っています。
 皆さん、今年度も宜しくお願いします。

2017年 3月

「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」
                (詩編27編1節)

 大塚平安教会は2月に「キリスト教の死生観」というタイトルで学習会を開催しました。人が生きるとはどういうことか?生きることの先にある死をどう受け止めるのか?色々な側面から学びました。ある方がこんなことを話されました。「死とは、恐ろしいというより、何か光に包まれていて、輝いていて、栄光の中に引き込まれて行くような感じがします。」わたしはこの言葉を聞きながら、素敵な感性を持っておられるなぁとすっかり感心していました。死とは光に包まれることだ。それは生きるも死ぬも、どちらにしても神様のお守りの中で起こるのだと言っておられたのだと思うのです。

 詩編の作者は「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」と告げています。主なる神様がいつも一緒にいて下さるので大丈夫、という安心感を受ける御言葉です。「『病は気から』の科学」(高田昭和著)という本を時々読むのですが、「安心感は寿命を伸ばす」というタイトルの箇所があります。現在の日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、なぜ、こんなに寿命が延びたのか、一つは、生活環境の良さ、医学の進歩、栄養状態の改善などによるものでしょう。例えば抗生物質の発見などは、かなり決定的であったろうとも言われます。けれど、不思議なことに抗生物質が発見される100年も前から、つまりは19世紀初め頃から、寿命は伸びてきていたそうです。あるいはワクチンも発明される以前から、ワクチンが必要な病気の罹患率そのものが減ってきていたそうです。もっと言うと、早期発見、早期治療と言われるガンをはじめとする様々な病気も、確かに早期発見して、早期治療をするとその後も健康でいられるわけですが、でも、どんな治療にも言えるようですが、そのことによって人の寿命が伸びて来ているのかどうかはよく分からないのだそうです。

 では、なにによって寿命が伸びたのか?高田先生は「安心感」ではないのかと言っています。貧しい地域に高度医療体制が整った病院が出来たそうです。そのおかげで、地域の人たちは恩恵を受けるわけですが、更にそこから広い地域の町や村の人たちまでがかなり健康になったというのです。なぜか、もし何かあったらあの病院に行けばよいと思える「安心感」があるからです。この思いが人を健康にするのではないかと言うのです。

 ですから、逆の「不安」「ストレス」「恐れ」は寿命を縮めるのではないかとも記していますし、実証例も幾つか出されています。続けて「社会や家庭の絆が私達の健康、長寿に深くかかわっている」とも記します。更に、「愛がなければIQも上がらない」とさえ記します。成績の良い子に育てたいと願うのなら、夫婦が愛し合い信頼を寄せること。家族が深い愛情で繋がっていることが必要なようです。
テレビ、マスコミは、毎日のように不安をあおるような出来事を報道し続けます。富士山が爆発するとか、大地震が起こる確率とか、戦争への危機や、環境汚染の実態や、食べ物、飲み物のリスクなど、いかに大変か、毎日ショッキングとも思えるニュースを伝えます。勿論大切なことでしょう。そうならない事を必死に祈らなければなりません。けれど、そんな報道を聞きながら、私たちの心が、日々不安と恐ればかりにさらされているとしたら、やっぱり悲しいと思うのです。

 皆さん、だから、聖書の御言葉をこそ読みたいと思います。「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」どんな状況の中にあっても、主なる神様がともにいて下さることを思い、どんな時でも大丈夫。安心感をしっかり持って生きていきたいものです。

2017年 2月

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」
          (コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節)

 昨年11月にオリエンタルラジオ中田敦彦さんが、「しくじり先生」と言う番組で「星の王子さま」の紹介をしたそうです。残念ながら見ていませんがとても素敵だったと評判のようです。番組を見られた方や本を読んだ方も多いかと思いますが、中田さんの解説によると、星の王子さまが旅をした六つの星の意味は、「人が人生で溺れがちなもののイメージ」だそうです。

 すなわち、「権力」、「人気」、「快楽」、「財力」、「労働」、「学問」です。よくわかります。それらのものが欲しくて、私たちはなんとかしようと頑張っているのではないでしょうか。けれど結局、それらのものが人を本当に幸せにするのか?という問いかけが「星の王子さま」の中に隠れているのだと思います。

 王子さまと友達になったキツネが話しかけました。「キツネが言った。『じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。』」印象的な言葉です。

 大切なことは目に見えない。何が大切なのか?年齢や状況によっても違うでしょう。受験生や学生にとっては偏差値や学力が大切で、会社員であれば会社のポジションが大切で、高収入も必要です。そんなことを考えると、私たちの周囲は数値とか点数、ノルマ、年収といった目に見える形で評価されていることに改めて気が付きます。そして、キツネが言ったように「いちばんたいせつなことは、目にみえない」という言葉にはピンとこないのです。高得点、高収入が幸せを保証しているかのようにも思えるからです。

 でも、本当にそうでしょうか。なぜ、目に見えないものが大切なのでしょうか。一体、目に見えないものとはなんでしょうか。

 上述した「人生で溺れがちな六つ」を合わせると恐らく「欲」という言葉になると思います。人は生きるためには「欲」が必要です。生きようとする「欲」が絶対に必要です。けれどその欲が、貪欲や情欲となり、さらに傲慢となり、悪意、無分別となっていくとき、際限なく人は「欲」に溺れ、自らを潰しかねないのだと思います。「際限ない」とは、「いつも十分ではない」、「このままでは満足ではない」という意味です。だから、幸せではないと思うのです。不満なのです。嫌なのです。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という御言葉の前にこう記されています。「だから、私たちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』が衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」外なる人とは、見えるものです。見えるものはいつかの時点で衰えていきます。自分の体も能力もいつかは衰えていくのです。けれど、内なる人は日々新たにされるとは、教会的に言えば、「信仰」と言えるでしょうし、「信仰」をあえて用いなければ「希望」や「愛」、そしてなによりも「幸せ」です。幸せを求め続けていく人生も良いでしょう。でも求め続けていく理由が「今は幸せではない」から、だとすれば、その人に幸せは永遠にやってきません。

 幸せに生きるためには、どのような状況にあっても尚「今も幸せ」であり、明日もその後もずっと「幸せである」と信じることです。そのように生きていくことです。

 目に見えないけれど大切な「幸せ」を、家族や妻、夫、こどもたちと分かち合うとき、どんなにか幸いを感じることでしょうか。皆で幸せに生きていきましょう。

2017年 1月

「ひかりの子として歩みなさい。」 (エフェソの信徒への手紙5章8節)                                       
              
 皆さん、新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 来月早々、大塚平安教会では修養会という学びの時を持ちます。タイトルが「キリスト教の死生観」です。今、色々な資料を見たり、調べたりしていますが、ネットで「長生きする人の特徴」を調べてみました。凄く沢山出て来て面白いです。1、真面目な人 2、打ち解けやすい人、開放的な人、3、感情が安定している人 4、のんきな人 5、感情を上手に表現できる人 こんな方は長生きする傾向があるそうです。この逆は、1、長風呂の人 2、睡眠時間8時間以上の人 3、平熱が低い人 4、不倫している人 5、早朝から運動する人など・・・。一つ一つの解説は記しませんが、不倫などしていると、きっと神経が休まらないのでしょうか。(笑) 勿論、上記の文章は責任もって記しているわけではないと思いますし、誰にでもあてはまるわけでもありません。わたしは真面目に生きていますけれど、冷え性ですから体温が低いのです。

 でも、他にも色々と読みましたが、あまり気苦労せず、その時、その時を「幸せだ」と感じながら生きられるなら、長生きでも、たとえそうでなくとも充実した良い人生ではないでしょうか。

 「ひかりの子としてあゆみなさい」とは聖書の中でも最も知られている御言葉の一つです。私たちは神奈川県の県央と呼ばれる地域に住んでいます。この地域は都会か田舎かと言われたら、私はやっぱり都会だと思います。都会風に生きていると言っても良いでしょう。なぜ都会風かというと、例えば隣人が何をしているのか、どんな人や家庭なのかがわからないとか、野生の鳥、家畜、魚、カエル、トンボなどのいわゆるペットではない、動物や様々な生き物と触れ合う機会が少ない。つまり、生きていく為の人との関係性が薄く、また生きる命と触れあう機会が少ない状況に住んでいるのが私たち、と言えると思うのです。そんな生活で失われやすいのは「生きる力」です。人はなぜ生きるのか? 生きていかなければならないのか? なぜ命は大切なのか? なぜ命を粗末にしてはならないのか? なぜ人は一人ひとり違っているのか? 更には、なぜ違っていることが大切なのか? そんな大切なことが見事に隠されてしまっているのです。隠されていると人は「不安」になり、「不安定」になってしまいます。そんな不安感が引き金となり、引きこもりや不登校の子どもたちだけでなく、社会的に厳しい生活を強いられている大人もとても多いと思います。

 だから、私たちはどう生きていくのか? 聖書は「ひかりの子として歩みなさい」と教えました。曇りや雨の中で物事を考えると、良い方向へ気持ちが向きませんが、雨が上がり雲の隙間から太陽の光が差し込んでくる、その光を見るだけで自然と力が与えられたと感じるように、私たちを「ひかりの子」として下さる方を信頼して生きることです。子どもたちは無条件に「ひかりの子」です。子どもたちは親から、家族から、先生から、友達から、沢山愛されていることに少しも疑いを持ちません。ひかりの中をしっかりと生きています。そのひかりの中をいつまでも歩めるように、大人もまたしっかりと、「ひかり」の中を生きていきたいものだと思います。

 長生きする人、真面目な人とは、あえて危険と思われることをしない、危険な場所に行かないから、長生きすると説明がありました。その通りだと思いますけれど、私は、危険なことをする必要もないし、危険な場所にいく必要もない、リスクを冒して「愛」を求めたり、「命」を感じようとしたりしなくてもよい人なのだと思います。私たちもそんな必要はありません。わたしたちこそ神のひかりに包まれて生きているのですから。安心して今年も一緒に生きていきましょう。

2016年 12月

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。                              
               (ルカによる福音書1章28節)

 我が家に中学2年生の娘がいます。この間、「お父さん、どっちが小顔になるか競争しよう。」と言われました。娘はどうも自分の顔が小顔ではないことに気が付いてきたようです。定規で計ったらおまけして19.5センチありました。因みに私の顔は22.5センチです。更に因みに広瀬すずは17.5センチだそうです。どうでも良いような話ですが、自分のことが気になる年頃なのかもしれません。でも、気になるとは、イコール気に入らないということです。娘は兄に「お前の鼻はニンニクみたいだ」と言われて大いに傷ついていました。きっと鼻も気に入らないはずで「なんでお父さんに似たかな」とつぶやいていました。

 マリアも丁度、こんな年頃であったと思います。恐らく13歳とか、14歳とか…。けれど、当時としては結婚する年頃でもありました。既にヨセフという婚約者がいました。ささやかだけど、幸せだと思っていたかもしれません。そんな、どこにでもいるような娘であったマリアのところに、天の使いのガブリエルが現れて語りかけました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアは驚き、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。更に天使は続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言うのです。マリアは更に驚いて「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と応えます。けれど、更に天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神にできないことは何一つない」と語りかけました。

 マリアが世界中の人々から愛されている理由は次の応答の言葉にあると私は思います。「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」私には考えられないけれど、すべてのことを受け止めて、私は幼子の母となりますと言ったのです。どうして、マリアはそう言えたのかなと考えてしまいます。そして、考える中にマリアは自分で自分のことをしっかりと受け止めていたのだろうと思うのです。自分で自分の存在を喜んでいたと思うのです。自分で、自分の存在を喜ぶことはなかなか大変です。顔の大きさや、鼻の形だけでもなく、足の長さも、爪の形さえも気にいらないと思う私たちがいます。まして、自分の性格などは本当に気に入らないのです。

 先日もあるご婦人から相談を受けました。「先生、私は人と話すときに、沢山話すと、後で話しすぎたと後悔して、だから話さないと、後で話さなかったと後悔するのですが、どうすれば良いのでしょうか。」あ〜、その気持ち良くわかると思わないでしょうか。けれど、そんな自分を自分でも嫌いと思ってしまう私たちの全てを包み込み、全てを赦し、「そのままのあなたがどんなに素晴らしいか」を知らせるために、神は御子イエスをこの世に誕生させて下さいました。その母としてのマリア。マリアの素晴らしさは、この事を通しても、神様は私を愛して下さり、私の存在を慈しんでくださっていると信じることが出来る「心」を持っていたところです。

 私たちも、私たちの全存在を主なる神様が慈しんでおられることを忘れないようにしたいものです。神の愛が私に、それ故に夫に、妻に、子どもに、家族に、友達に、与えられている喜びを、このクリスマスに改めて感じながら、過ごしていきたいものだと思うのです。

2016年 11月

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」                               (ローマの信徒への手紙12章15節)
先日、「君の名は」という映画を夫婦で見に行きました。息子が見て来てとっても良かったというので、それじゃいこうか。でも、普通に行くと1人、1800円なのですが、どちらかが50歳以上の夫婦だと1100円になるというのです。私たちはどちらも50歳以上の夫婦なので安心して見に行ったわけです。わかっているかと思いますが、お金の為に二人で行ったわけではありません。念のため。
ところで、私達の結婚生活もあっという間に20年が過ぎました。子供にも恵まれ、本当に幸いだと思っています。決して平穏とは言えないけれど、認知症の婆ちゃんと家族が一緒に食卓を囲むと、笑い声がこだまして、ついつられて婆ちゃんも笑ってくれるのです。そんな時は、ささやかだけど、心から幸せを感じます。そこで結婚生活の秘訣は何か?と聞かれてもいないのに答えますが、それは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことではないかなと思うのです。
この間、三人の子ども達が、なぜか私の老後の話をしていていました。話す中で、下の娘が「お兄ちゃんにお父さんまかせると心配だから、私が面倒を見る。」と宣言していました。ありがたいなと思います。本当に老後になったらこの文章を見せたいと思います。因みに食卓の位置は、母親の横に息子、私の横に娘です。自然とそうなったのですが、多分この位置が互いに座り心地が良いのです。異性の親子は、かなり許し合え、心が通いやすいからかもしれません。すなわち容易に「喜ぶ人と共に喜べて、泣く人と共に泣ける」のです。
そのようにして、息子が成長して自分の伴侶を探すときに、どうしても母親のイメージ(顔ではありません。性格のほう)で相手を探し、娘が成長して自分の伴侶を探せば、父親のイメージ(当然、顔ではありません)で相手を探し、この人では、と思いながらお付き合いが始まるのです。
けれど、結婚前は互いにそのイメージは殆ど前面に出て来ません。脳内恋愛ホルモンと呼ばれるオキシトシンの仕業でしょうか、相手に一所懸命に尽くすのです。相手の笑顔は私の笑顔、相手の悲しみは私の悲しみ、まさに「喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ」のです。そして、めでたく結婚。私もこれまで何組も結婚式を行いました。式の中で、「嬉しい時も、悲しい時も、その思いを分かち合いますか?」と聞きますと、なんと二人とも「はい」と真面目に答えるのです。当たり前ですが。
いよいよ、幸せな結婚生活のスタートです。とは言え、偉い先生がこう教えて下さいました。「結婚生活は三日目、三か月目、三年目に危機がやって来る。三年目以降は、毎日が危機である。」そうかな?と思いますか、そうだ!と思いますか。その真偽はわかりませんが、もし、危機かなと思っている方がいたとしたら、どうぞ思い出して下さい。「相手が喜んでいる時に、私も喜んでいるか。相手が悲しんでいる時に、私も悲しんでいるか。」長い夫婦生活、互いに向き合って生活していると結構疲れるのです。だから、映画を見る時のように同じ方向を見ていきましょう。方向が同じだと、喜びも悲しみも共有しやすようです。そんな二人に神様がいつも一緒にいて下さいます。皆さん、いい夫婦生活を過ごしていきましょう。

2016年 10月

「あなたがたは地の塩である」  (マタイによる福音書5章13節)

                        
 昔の偉い哲学者にプラトンという人がいました。プラトンは「イデア論」と言われる考えを世に示しました。どんな考え方かというと、たとえば世の中に馬がいたとする。様々な馬がいます。大きな馬、小さな馬、白い馬、黒い馬、ずんぐりした馬、すらりとした馬、けれど、どの馬を見ても私たちは「馬」であると理解します。なぜ「馬」だと理解できるのか?天にはこれこそ「馬」という理想的な馬の姿があり、その馬を人は天上にいた時に魂で感じていている。その後、地上に降りて肉体を取った時、すなわち生まれてから、人の魂は理想の馬の姿を思い起こすことが出来、その理想の幾らかでも宿している馬を見れば、それがどんなに異なっていても馬だと理解出来る、と説明しました。例えば、どのリンゴを見ても、私たちはリンゴだと判断できるのは、既に心の中に理想的なリンゴの姿を知っているから、それにあてはめてリンゴと判断できるのだというのです。

 そのようにして、馬やリンゴに限らず、美しいものを見て、美しいと感じる心は、天にある理想的な美しいものを知っているからであり、何をもって善であるかを知るのは、天にある理想的な善を知っているからであると説明しました。後の世代には多くの批判や、矛盾点を受けた考え方ですが、イデア論は歴史の中で、かなり長い間、人の思想にも影響を与え続けました。キリスト教も強く影響を受けました。天には理想的なクリスチャンの生き方があって、地上の信仰者はそのことを知っているので理想を目指して生きるのだ、などと説明されたりしたようです。

 このイデア論、私は現代でも影響しているのではないかとさえ思います。私自身、いつも何か理想的な牧師像があるような気がしてなりません。何かわけのわからない、心の中にある理想的な牧師像に近づきたいと願っていたりします。そのようにして皆さんも、もしかしたらイデア論にやられてしまっている方がいるかもしれません。例えば、理想的な夫婦像を模索しているのではありませんか?理想的な親子関係を求めてはいませんか?理想的な家族のあり方を探してはいませんか?それらの理想は、本当はかなり漠然としたものであって、具体性が無いのではありませんか?「理想的な生活」という言葉がありますが、この言葉には罠が張られています。どんな罠だと思いますか?理想的な生活を思う時に、少なくとも今の生活は違うと思わされる罠です。今の生活は理想的な生活ではないと思うので、不満も出るし、腹も立つし、理想に近づけるためにとお金も出ていくというカラクリです。

 さて、今月の聖書の御言葉は「あなたがたは地の塩である」とあります。この御言葉は有名な御言葉ですからご存知の方も多いでしょう。そして、この御言葉を読むと、自分は地の塩なんかじゃない、とてもそんな役割は果たしていないと思う方が多いのです。けれど、イエス様は、あなたも頑張って地の塩のように役に立つ人になりなさいと言っているのではありません。
「地の塩、で・あ・る。」と言っているのです。あなたは既に「この世の地の塩」として生まれて、育ち、家庭を築いている。それがどんなに素晴らしいかを知りなさいと教えているのだと思います。あなたは既に地の塩です。あなたの笑顔とあなたが話す言葉は、既に地の塩なのです。だから、私たちは漠然とした捉えどころのない理想を求めるよりは、地の塩として下さった神に感謝して、喜びを持って生きていくことが出来るのです。