聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2018年 5月

「私は良い羊飼いである」    ヨハネによる福音書10章11節


 「私は良い羊飼いである」とイエス様が話されました。2000年前のイエス様の時代では、羊飼いはポピュラーな職業だったと思います。ですから聞いていた人々にとってとても分かり易かったと思います。しかし、私たちが生きる日本社会では、羊飼いを想像するのは難しいと思います。ですから補足が必要ですが、私も具体的に良く知っているわけでもありません。想像するしかないのですが、まず羊は、人々にとって大切な財産でした。羊のミルクを飲んだり、ラム肉を食べたりするだけでなく、羊の毛はウールのセーターや毛布、敷物、ガウン等になったでしょう。皮は袋、ベルト、靴、衣服となり日常製品に欠かせない大切な個所です。皮から出るオイルは薬や化粧品ともなったようです。骨はナイフにもなり、良質の出汁として使用されました。更に、山羊などと比較すると、大人しく飼いやすかったと思われます。群れて行動しますし、人の声をよく聴き分ける耳もありました。羊の餌となる牧草地帯の多くは、水が不足しています。時々オアシスのような水場があり、そこで人も羊も水を飲んで休憩したようです。ですから、水飲み場はいつも混乱していたかもしれません。羊の群れがいくつも混じってしまうことも普通にあったようです。でも、羊飼いは少しも気にせずに、充分に水を飲ませたら、声をかけると、その声を聴き分けて、自分達の羊飼いの所に従っていくのだとありました。それほど、羊は耳が良かったのでしょう。

 けれど、同時に羊には特別な武器がありません。襲われたら逃げるしかないのです。ですから、羊が生きていくためにも羊飼いが必要でした。襲うのは野生の動物だけでもなく、財産ですから人が盗みにやってきます。そのような外敵から自分の体を張って守る羊飼いが「良い羊飼い」と言われたのではないでしょうか。逆に野生の熊とかに襲われて、自分だけ逃げてしまうような羊飼いがいたとしたら、良い羊飼いとは言えないでしょう。

 以上の事柄から見えてくることは、1、羊は弱い 2、だから羊飼いが必要 3、でも、とても価値があるという三点です。そして、イエス様が「私は良い羊飼いである」と言われた時の羊とは私たちのことです。

 私たちは弱い存在ですが、羊が一匹ではとても生きていけないように、私たちも本当の所は一人では生きていけません。羊は目が悪いと言われていますが、私たちも将来を見通すしっかりとした目を持ち得ているでしょうか。人の言葉に傷ついたり、傷つけたり、裏切ったり、裏切られたり、人の態度や言葉に翻弄されながら生きているのではないでしょうか。だから、そのように揺れ動く私たちのために、羊飼いが必要です。しかも、良い羊飼いが必要です。私たちの生涯を支え、守って下さる良い羊飼いです。私の父親は5年ほど前に召されましたし、母親は認知症です。親はいつまでも元気ではありません。いつか、こちら側が支える時がやってくることを忘れてはなりません。だからこそどんな時でも支え、導いて下さる良い羊飼いである方に「親替え」をする必要があるのです。更に、良い羊飼いとしてのイエス様は、私たちがどんなにか価値がある存在かということを知っておられます。私たちはそれぞれに与えられたタラント(才能、能力という意味)があります。頭脳明晰な方もおられますし、体力には自信がある方もいるでしょう。手先が器用な方、包容力がある方、計算は任せておけという方もおられるでしょう。何もないと思われている方、おめでとう。私と一緒で、あなたには「それでも神様に用いられている」と言える素敵な言葉が準備されています。

 いずれにしても良い羊飼いは、私たちの価値を良くご存知です。私たちが自分で知らない価値までご存知です。だから、この方と共に生きていきましょう。この方の支えと御守りの中で、私たちは安心して過ごしていけるのです。

2018年 4月

「子供たちをわたしのところに来させなさい。」…そして、
子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 
           マルコによる福音書10章14〜16節

 既にご存知の方も多いかと思いますが、私の出身は岩手県です。牧師になるための神学校を卒業して、初めて赴任した教会も岩手県の花巻教会という私のほとんど地元の教会でした。花巻教会に凡そ8年おりましたが、その頃、巷で盛り上がっていたことの一つに、岩手県出身の力士で、久しぶりに幕内に入った力士がいて、栃乃花という名前でした。明治大学相撲部出身でイケメン力士でもあり、当時はかなり人気がありました。好成績を収めて岩手に帰京したときには、地元ニュースでは一番先に放送されて、小さな子供たちを連れた親御さんが大勢集まっていました。是非、栃乃花に抱っこしてもらいたい。そんな思いだったろうと思います。

 イエス様の周りに集まってきた人々も、それぞれ子供たちを連れてきていました。人々の願いはイエス様に子供たちの頭に手を置いて祝福して頂きたい、また抱きあげて祈って頂きたい、という願いだったと思います。
ところが、イエス様の周りにいた弟子たちはその人々を叱りました。イエス様は忙しいからとか、そんな面倒ことをイエス様にお願いするものじゃない、そんな思いで接したのではないでしょうか。けれどイエス様はその様子を見て、「憤り」弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させない。」
 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださいました。

 さて、ここで大切なのは、子供を連れてきたのは「人々」であったということです。人々とは、母親でもなく、父親でもなく、勿論そういう場合もあると思いますが、地域の「人々」が子供たちを連れてきたというのです。その姿は、子育ては「地域の責任」という思いが昔からあったことを連想することが出来ます。

 現代社会、特に首都圏に住む私たちの中に、子育ては地域の責任という考え方がどこまで育っているでしょうか。むしろ核家族化が進み、情報は遮断され、プライベートが大切にされます。昔は地域に「子供会」があって、そこに集う子供たちは、年齢を超えて自然に遊んだり、集ったり、虫取りに行ったり、魚釣りにいったり、自転車を教わったりしながら、いわゆる社会性を学んだのだと思います。社会性とは、つまりは人間関係を学んだということです。子供の頃にこそ、健全な「人間関係」の中で生きることがとても大切だと私は思います。特に就学前の子供たちにとってはとても大切だと思っています。

 そんなことを思いますと、勿論、家庭だけで子育ては出来ず、けれど、幼稚園だけでも子育ては出来ません。大切なのは、「関係」です。皆さんのご家庭と、幼稚園と、父親と、母親と、ご家族と、園の先生方と、そして、友達とが、みんなが一緒になって、いわばゴッチャになって、そこで素敵な「人間関係」を作り上げることがとても大切なのだと思います。行政がどんな目的で、あるいはどんな言葉でもって、「子育てとは何か」とか、「自主性を重んじよう」という言葉を用いるとしても、もっと大切なものがあるのです。

 人は一人一人が生きていて、命があって、だから、何かの型にはめることなど出来ません。イエス様が無条件で、無尽蔵に子供たちを愛されたように、子供たちの心の中に、生きる喜びがほとばしるようにと願いながら、2018年度も、皆さんと一緒に歩めたら良いなと思っています。

2018年 3月

「あなたの未来には希望がある。」  エレミヤ書31章17節                               
 先月、幼稚園でも行いましたが、時々、キリスト教関係だけでもなく、色々な集まりからお話を、とお願いされることがあります。本当に感謝なことです。そのような時によく話をさせて頂くのは、人生には四つの生き方があって、「マイナスからマイナス」、「プラスからマイナス」、「マイナスからプラス」、「プラスからプラス」の四つですと話します。

マイナスからマイナスの生き方は、今もダメだけれど、明日もダメだろう。今日もダメだけど、将来もダメだろう。という生き方です。とてもネガティブで、否定的な生き方です。実は私は、キリスト教を知る前にはこのような生き方をしていました。難しい言葉で言うと「刹那的」な生き方といいます。生まれてきて良いと思えたことは一つもなく、現在も良くなく、将来にも希望がない。生きていても楽しくなく、なぜ生きているのかさえよくわからない。そんな経験をしない方が良いと思いますけれど、時として思春期から青年期にかけて、このような生き方をする人がいます。将来に希望がないと思うと、周囲も自分もどう生きて行けば良いのかわからず苦労の連続です。二つ目は「プラスからマイナス」の生き方です。今は大丈夫だけど明日には希望が無いという生き方です。今はなんとかなっているけれど、将来はわからないと考えてしまうと希望を失っていきます。「お金持ちの頭の中には、中、長期的な自分の人生の展望と計画がある」という文章を先日読みましたが、なるほど!と思いました。私にはそんな展望も計画もありませんから、お金持ちではないのかと、勝手に(笑)納得していました。けれど、将来に展望がありませんと、今は良くても、希望なしの人生は虚しいものになるのでないでしょうか。それよりも、三つ目の「マイナスからプラス」の生き方は良いように思われます。今はダメだけれど、明日はより良くなると思って生きる生き方です。頑張り屋さんや、自分に自信がある人などは、このような傾向があると思います。では、何が良くないのかというと、今はダメと思う所です。今とは、「今」「この時」「現在」のことです。実際のところ、私たちは過去でもなく、将来でもなく「今」に生きていますから「今」がダメだと、このダメがずっと続くことになるかもしれません。だから、大切なことは四つ目の「プラスからプラス」の生き方なのです。「今」も良いけど、明日も良い、明日も良いけど、将来も良い、大切なことは「今」をプラスとして受け入れることです。私たちが悩むのは、実は「今」のことです。過去のあのこと、このことが悩みの種になっているとしても、その悩みは過去にあったのではなく、今も継続して悩んでいるから悩みなのです。だから「今」をどう生きるのかがいつも問われているのだと思います。

 エレミヤという旧約聖書預言者は、紀元前630年〜580年頃、イスラエルで活躍した人です。この頃のイスラエルは、敵国のバビロンという国との戦いに敗れ、国は崩壊し、既に国の機能を失っていた時代に生きた預言者です。イスラエルの最も苦しい時代であったといえるでしょう。将来が全く見通せず、自分の命さえもどうなるかわからない状態でした。けれどエレミヤは、主なる神の御言葉をイスラエルの民に伝えるのが役割ですから、必死になって御言葉を話しました。その一つが「あなたの未来には希望がある」という御言葉です。雰囲気としては「マイナスからプラス」のようにも受け取れますが、今をプラスにしなければ、本当の力が与えられません。あなたと、あなたの子孫の将来は「今」にかかっている、だから今を大切に生きていきなさい。と必死にエレミヤは人々を力付け励まし続けました。私たちも、私たちと私たちの子どもの将来は「今」にかかっているのだと思います。「今」を、心を込めて大切に生きていきましょう。

2018年 2月 

「愛は、すべてを完成させる絆です。」コロサイの信徒への手紙3章14節


 最近、私がハマっている本に『ジブリアニメで哲学する』(小川仁志著 PHP文庫)という本があります。哲学者の著者が宮崎駿監督のジブリ映画を哲学的な観点から記しています。とはいえ、決して難しい文章ではなく楽しく読めます。例えば、「風の谷のナウシカ」という映画がありますが、その中で「風」とは何か?「虫」とは何か?「自然」とは何か?という表題をつけながら、風や虫、自然について考えています。ナウシカの映画が描かれている背景には、人と人との大きな争いがあって、その為空気が汚染され、普通に呼吸すると肺がやられて死んでしまう程に、空気汚染がひどい状況となり、わずかに「風の谷」だけが、風の流れのおかげで、防毒マスクをしなくても大丈夫なようになっているという設定です。

 これまでの近、現代で人間が築き上げてきた文化は、どこかで自然と対立するようにして成立してきた文化ではなかったかと私は最近特に感じています。田舎の静かな田園風景とは、人間が一生懸命に自然を開拓して、畑を作り、水田を作った究極の人工物だと説明された方がおられて、なるほどと納得したことがありましたが、それでも畑や、水田は、自然と共にあったと思います。けれど、いつの間にか、そこで採れる農作物に、農薬が使用されたり、DNAが操作されたりして、自然とは離れて行ってしまっているように感じます。つまり、自然と共存出来なくなってきているのではないか?と思うのです。人間の精神的な疲れや、ある種の病気は大自然の土にまみれるだけで良くなる、土はそういう力を持っているとも言われます。畑仕事や、自然と共にいる時、私たちはとても気持ち良くなり、ストレスが減退していくことは皆さんもよくおわかりでしょう。著書の中にも、「自然との絆を取り戻すことさえできれば、自然は本来の働きをしてくれます。」とありました。聖書には人間が自然を管理することを神様から任されているように記されている箇所がありますが、それを人は、長い間、支配することと捉えて来たのかもしれないとも思っています。私たちは自然を支配して、人間の好き勝手を行って、しかし、それは逆に、人がとっても生きづらくなってきているとしたら、私たちの自然に対する管理は間違っていたのだと思うのです。例えば原子力の使用などにも深く関わりがあることではないでしょうか。

 私たちは、神様から命を頂き、地上での生活を過ごしていますが、それと同じように動物も、昆虫も、魚も、植物も、皆命があり、そして皆が同じ地上を生きているのは、大切な意味があると思います。そして、支配や争いの中からは互いが互いを大切にする絆は生まれてきません。絆とは「つながり」です。自然とつながりあう、しかし、更に言えば、自然に対して、私たちは常に自然に従うしかないのです。自然のほうがずっと大きく力があることを忘れてはなりません。

 今月の聖書の御言葉は「愛は、全てを完成させる絆です」という御言葉です。私たちと繋がるのは、自然だけでもありません。何よりも、人と人が繋がっていることが大切です。自然は自然だけでも形成されていくでしょう。でも人は一人では生きていけません。だから、家族を求め、人と人が共存しあい、社会を形成しようとします。その社会の中で、恐らく最も大切なものは、「愛です。」聖書の中に、「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」とあります。「その中で最も大いなるものは、愛である。」とも記されています。信仰よりも、希望よりも、愛が人と人を、そして人と神を繋げるのだと思います。私たちも、この3学期、繋がりながら、愛を持って生きていきましょう。

2018年 1月

見よ、わたしはあなたと共にいる  創世記28章15節
                                 
 新年、おめでとうございます。2018年が始まりました。1月の聖書の御言葉は「見よ、わたしはあなたと共にいる。」です。この言葉は旧約聖書創世記に記されています。創世記にはユダヤ教キリスト教イスラム教からも「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが登場します。アブラハム夫妻が願って、願って、与えられた独り子がイサクでした。イサクには双子が誕生します。エサウヤコブと言います。双子ですが、エサウが長男、イサクが次男です。長男と次男の最大の違いは、長男だけが父親の財産を受け継ぐ権利があったということです。ですから、双子でしたがエサウだけが財産を受け継げたのです。ところが、家族のそれぞれの思惑も絡み、父親のイサクは長男のエサウに家を継がせようと思っていましたが、母親のリベカは次男のヤコブにと願っていました。そこでヤコブとリベカは相談して、年老いて目が見えなくなってきていたイサクをだまし、「わたしがエサウです」と言って信じさせ、ヤコブが、長男にだけ与えられる祝福を受けてしまいます。そのことを知ったエサウは激怒して、いつか、弟のヤコブを殺してやろうとさえ考えるようになり、ヤコブはリベカに勧められて、止む無くお嫁さん探しという口実で旅に出ることになります。

 その旅の途中、ハランという場所で野宿をしていた時に、ヤコブは夢を見ます。その夢で主なる神が現れて「わたしはアブラハムの神、イサクの神、主である」と告げるのです。そして「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、あたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」と告げました。すなわち、長男として受け継いだ祝福は取り消されることなく、しっかり活きていて、ヤコブが大いなる神の祝福を受けるのだと神が伝えて下さったのです。この出来事にヤコブはとても力を得て、それからの長い旅の人生を力強く生きて、その後、20年以上経ってから、父イサクの土地へ戻ることになります。その時、既に、ヤコブには12人の子どもたちがいて、この子どもたちがイスラエル民族の基となっていくことになります。

 皆さん、「感情免疫力」という言葉をご存じでしょうか。私たちは心で生きています。心の感情で生きています。感情は時に、自分でも思いがけない行動に向かわせたり、コントロールするのが難しかったりします。特に相手の行動や言語によって、自分の感情が大きく変化してしまうと思っている方、案外多いのではないでしょうか。夫や、妻や、家族や、友人の顔色に必要以上に気を使っているなと思っている方、多いのではないでしょうか。すぐ怒る人とか、イライラする人の感情に引きずられたり、振り回されたりしている方、多いのではないでしょうか。でも後でよく考えてみると、自分にはなんの関係も無かったり、相手は自分に対して何も思っていなかったことがわかってホッとしたりする経験があるのではないでしょうか。他人の感情に振り回されないように心がけることを「感情免疫力」を強めると言うようです。

 ヤコブが、エサウや、父イサクから非難されて、傷心で旅立ちましたが、そこに主なる神がおられて、「見よ、わたしはあなたと共にいる。」と告げた時、ヤコブは自分をしっかりと取り戻しました。私を造られ、命を与えて下さった方が、私と共におられる。そう信じられるなら、あなたは大丈夫です。何があっても主がわたしと共におられる。安心して「感情免疫力」を強めて、この2018年も過ごして参りましょう。

2017年 12月

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
                    ルカによる福音書2章14節

 今から凡そ25年程前のことです。クリスマス直後から私はパリにいました。ある修道会が年に一度開く、ヨーロッパの大きな集会に参加していました。世界中から数万人の若者が集まり、パリの様々な教会の礼拝に参加しました。その時、私たち日本人は10名程度でしたが、世界の一番遠いところからやってきた方々と紹介されました。教会の礼拝は世界中の言葉で聖書が読まれ、共に賛美し祈りました。私は日本語で聖書を読み、一万人もいたかもしれない人々の前で話をさせて頂きました。勿論日本語で(笑)。プロの通訳がそれを英語にして、英語から各国の通訳が自分達の言語に直して伝言ゲームのようにして人々に伝えるのです。実質的には私は3分位しか話しませんでしたが15分位かかりました。良い思い出です。多くのフランス人と友達になり、ロシア人と一緒に就寝し、ポーランドの司祭とも友達になりました。来年はポーランドでこの集会を行うので、是非来てくれと招待状まで頂きました。でも、全て自費参加でしたから、結局願いは適いませんでした。(笑)

 ヨーロッパは1月6日までクリスマスです。(勿論、日本もそうなのですが)12月31日の夜に特別な礼拝を守り、礼拝の途中に新しい年となって、それから教会の大きな集会室に集まって、あたかも「国別対抗歌合戦」のようになりました。私たちも日本の讃美歌を歌いましたが、でも全く敵うわけもなく、私の思いでは、最も力強く最も凄いと思ったのは、フランスのメンバーではなく、イタリアからの人々だったように思います。彼らは肩を組むようにして、本当に嬉しそうに、楽しそうに、喜びが爆発したかのように、笑顔で声高らかに歌っていました。国民性というのでしょうか。本当に凄いと思いました。
天の大軍が現れて御子イエスの誕生を声高らかに歌ったこの歌「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」どんなにか心のこもった、また喜びが爆発したような、羊飼いや、寝静まっていた動物たちも飛び起きる程の歌声ではなかったと思います。なぜそんなに喜ぶのか、御子イエスが誕生されたからです。私たちのこの地に平和をもたらそうとして、神様のご計画が動き出したからです。天に栄光は既にあります。だから「地に平和」を願ったのです。「御心に適う人にあれ」とは、神様は全ての人々を御自分の思いに適うそのような一人ひとりにして下さるという意味です。

 私達の世界は未だ、まことの平和が来ているとは言えません。平和どころか、どの国も賛美ではなく、軍備に夢中です。軍備に夢中になっている人々がこの世の指導者と言われているのは、とても皮肉です。軍事力では決して平和はもたらされません。でも、だからと言って全世界の武器を無くしても平和がもたらされるわけでもありません。人の心に怒りや、悲しみや、悔しさ、妬みと言ったものがある限り、平和ではないのです。本当に平和がもたらされるために必要なのは心の問題です。どんな時も「互いに幸いを喜び、隣人を愛する心、」で溢れることが求められているのだと思います。神様が、御子イエスをこの世に誕生させた目的は、私たちが本当に幸いになるためであり、地に平和がもたらされるためだと私は信じます。だから、私たちはどんなことがあっても、「幸い」に生きていきましょう。

 「いと高きところには栄光、地には平和」とクリスマスのこの時期だけでもなく、毎日をそのような心で、そのような歌声で、神を賛美し、隣人を愛していきましょう。

2017年 11月

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」

               マタイによる福音書18章20節                        
 バーバラ・テイラーというアメリカの牧師は「健全な家族とは、瓶の中を転がる小石のように、互いにこすりあいながら尖った角を丸くしていく場所になります。」と教えています。「瓶の中」という表現は少し難しいですが、例えば川の上流の石は角ばっているものですが、下流に流されていくにしたがって、どんどん丸くなっていることはどなたでも分かることです。つまり、丸くなるためにも、「健全な家族の健全な争い」が必要なのかもしれません。

 でも、「健全な争い」とはどんな争いなのでしょうか?以前、礼拝の説教でも、教会の集会でも話題にだしましたがC・Sルイスという先生が記した「天国と地獄の離婚」という話をしました。気が付くと男の人が寂しい町を歩いていて、なんだか薄ぼんやりした町だなぁと思いながら進んでいくと、人影もまばらで、駅にいっても殆ど人がいなく、町にも小さなタバコ屋や、古本屋があって、古本は埃をかぶった「アリストテレス全集」が並んでいたりするのです。でも、バス停があって、そこには人が沢山並んでいて、自分も並んでバスを待ち、バスに乗って、隣の人と話をするのです。「不思議な町ですね」、「あ〜ハイ、この町の人は、隣同士で住むとすぐに喧嘩が始まって、怒ってこんな隣に住んでいられるか!と怒って、両方とも引越しちゃうんですよ。でもその引越し先にも、隣の人がいて、すぐ喧嘩をして、こんな隣に住んでいられるか!と怒って、また、相互に引越しちゃうんですよ。そして、その先でも同じことが起こるのでいつの間にか、町の中心には誰も住まなくなって、町のはじ、町のはじに住むのです。」と話してくれました。「そうですか、ところでこの町の名前はなんというのですか?」と聞いたら、「地獄」といいます。と答えたというのです。とても印象深いシーンでした。

 さて、皆さん、「健全な争い」の逆の「健全でない争い」は良く分かると思います。口を利かない、ということです。腹を立てて、「夫と一週間も口を利いていません」と言われた方が、前にいた教会幼稚園のお母さんにはおられました。ドレーパー記念幼稚園では聞いたことがありません(笑)。口を利かないとは、互いをいない者、いない人として振る舞うということでしょう。とても寂しいし、とても傷つきます。学校や社会では「いじめ」と言います。では、逆に口を利いても、その口から出て来る言葉が、その人を傷つけ、悲しませ、力を奪うとするなら、それも「健全でない争い」であり、それも学校や社会では「いじめ」と呼ぶのではないでしょうか。

 それなら「健全な争い」とはどんな争いなのでしょう?私が講演する時の定番の話ですが、石油スト―ブの石油が無くなりました。新婚家庭なら、「私が入れて来ますからあなた待っていて」と妻が言うと、「なにを言っているか、お前こそ忙しいから、俺が入れて来る」と夫が言うのです。「イエ、私が」、「イヤ。俺が」と争っている姿は、石油が無くともそのうち暖かくなるのではないですか。ところが、結婚5年、10年となると、「あんた、ストーブの石油入れて来て」「じょうだんじゃない、お前こそ行ってこい」と争っているうちに、互いに風邪をひいてしまうというのは、前の幼稚園の夫婦には数組いたかもしれません。皆さん、ドレーパー記念幼稚園で本当に良かったですね。

 というわけで「健全な争い」を続ける家庭では、子どもたちも、どう生きるとイキイキするのか自然に了解して笑顔で元気になるのです。そんなあなた方のご家庭にこそ主イエスが一緒にいて下さるのです。