菊池牧師による聖書の言葉

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2018年 5月

「私は良い羊飼いである」    ヨハネによる福音書10章11節


 「私は良い羊飼いである」とイエス様が話されました。2000年前のイエス様の時代では、羊飼いはポピュラーな職業だったと思います。ですから聞いていた人々にとってとても分かり易かったと思います。しかし、私たちが生きる日本社会では、羊飼いを想像するのは難しいと思います。ですから補足が必要ですが、私も具体的に良く知っているわけでもありません。想像するしかないのですが、まず羊は、人々にとって大切な財産でした。羊のミルクを飲んだり、ラム肉を食べたりするだけでなく、羊の毛はウールのセーターや毛布、敷物、ガウン等になったでしょう。皮は袋、ベルト、靴、衣服となり日常製品に欠かせない大切な個所です。皮から出るオイルは薬や化粧品ともなったようです。骨はナイフにもなり、良質の出汁として使用されました。更に、山羊などと比較すると、大人しく飼いやすかったと思われます。群れて行動しますし、人の声をよく聴き分ける耳もありました。羊の餌となる牧草地帯の多くは、水が不足しています。時々オアシスのような水場があり、そこで人も羊も水を飲んで休憩したようです。ですから、水飲み場はいつも混乱していたかもしれません。羊の群れがいくつも混じってしまうことも普通にあったようです。でも、羊飼いは少しも気にせずに、充分に水を飲ませたら、声をかけると、その声を聴き分けて、自分達の羊飼いの所に従っていくのだとありました。それほど、羊は耳が良かったのでしょう。

 けれど、同時に羊には特別な武器がありません。襲われたら逃げるしかないのです。ですから、羊が生きていくためにも羊飼いが必要でした。襲うのは野生の動物だけでもなく、財産ですから人が盗みにやってきます。そのような外敵から自分の体を張って守る羊飼いが「良い羊飼い」と言われたのではないでしょうか。逆に野生の熊とかに襲われて、自分だけ逃げてしまうような羊飼いがいたとしたら、良い羊飼いとは言えないでしょう。

 以上の事柄から見えてくることは、1、羊は弱い 2、だから羊飼いが必要 3、でも、とても価値があるという三点です。そして、イエス様が「私は良い羊飼いである」と言われた時の羊とは私たちのことです。

 私たちは弱い存在ですが、羊が一匹ではとても生きていけないように、私たちも本当の所は一人では生きていけません。羊は目が悪いと言われていますが、私たちも将来を見通すしっかりとした目を持ち得ているでしょうか。人の言葉に傷ついたり、傷つけたり、裏切ったり、裏切られたり、人の態度や言葉に翻弄されながら生きているのではないでしょうか。だから、そのように揺れ動く私たちのために、羊飼いが必要です。しかも、良い羊飼いが必要です。私たちの生涯を支え、守って下さる良い羊飼いです。私の父親は5年ほど前に召されましたし、母親は認知症です。親はいつまでも元気ではありません。いつか、こちら側が支える時がやってくることを忘れてはなりません。だからこそどんな時でも支え、導いて下さる良い羊飼いである方に「親替え」をする必要があるのです。更に、良い羊飼いとしてのイエス様は、私たちがどんなにか価値がある存在かということを知っておられます。私たちはそれぞれに与えられたタラント(才能、能力という意味)があります。頭脳明晰な方もおられますし、体力には自信がある方もいるでしょう。手先が器用な方、包容力がある方、計算は任せておけという方もおられるでしょう。何もないと思われている方、おめでとう。私と一緒で、あなたには「それでも神様に用いられている」と言える素敵な言葉が準備されています。

 いずれにしても良い羊飼いは、私たちの価値を良くご存知です。私たちが自分で知らない価値までご存知です。だから、この方と共に生きていきましょう。この方の支えと御守りの中で、私たちは安心して過ごしていけるのです。