「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
先日、「やめるときも、すこやかなるときも」という小説を読みました。作者は窪三澄、これまで作品を読んだことのない作家でした。実際のところタイトルに惹かれての購入でした。いつ、タイトルの言葉が出て来るのか、つまり結婚式が行われるのかと期待しながら読みましたが、その場面は最後まで登場しませんでした。主人公は家具作り職人の須藤壱晴と、小さな出版社に勤める本橋桜子が繰り広げる、大人の純愛小説といったところでしょうか。ネタばれしないように、あまり内容については入りませんが、様々な出来事を通して、二人の心が大きく揺れ動く、その様子が読む者を惹きつける良い小説だと思います。
少し文章を引用しますが、桜子と壱晴との関係が上手くいかなくなってきたとき、桜子が心の葛藤を記した場面です。
「壱晴さんに対しては、貝のむき身みたいな自分をさらして向き合ってきた。少し砂がついたくらいで痛い痛いと泣いてしまうような自分。誰にも見せたことのない姿。壱晴さんだってそういう姿を私に見せてくれたのだと思っている。けれど殻をぴたりと閉ざしてしまえば、そんな人間の生身の部分なんてすぐに隠れてしまう。」
この言葉はとても印象に残りました。社会生活を送る上では、私たちは無用に傷つかないように、普段は固い殻で柔らかい中身を守って生活しているのだと思います。どんな人にも「貝のむき身」の部分があって、そこはとても傷つきやすいものです。その「むき身」を自然に見せられる相手はそうはいません。両親とか、夫婦とかごく限られた関係でしか見せられないものだと思います。しかも、人は長く生きていると無傷のむき身の人は殆どいないでしょう。
相手の「むき身」をどのように受け止め、どのように愛するか、それぞれだと思いますが、でも、この人なら受けとめ、愛し続けようと決心して人は結婚するのではないでしょうか。
キリスト教の結婚観は「やめるときも、すこやかなるときも」です。互いが健やかなときは、問題無いとしても、大切なのは、やめるときです。やめるとは「病める」、病気を連想しますけれど、病気に限らず、例えば、会社が倒産したとか、子どもが学校に行かないとか、危機はいつでも起こり得ます。最近でいえばテレワークで思いがけず夫婦がいつも一緒にいるということさえ、危機を感じることがあるようです。
それぞれの家庭にそれぞれの「やめるとき」があると思います。でも、そんな時でも、互いに愛して、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを、約束して結婚したはずです。キリスト教式の結婚式はしていないと言っているあなたも、心の中は、必ずそうなっていたはずです。でも、いつの間にか、少しずつ薄れて来ることもあるでしょう。忙しさの中で忘れていくこともあるでしょう。
だから大切なことは、あの時のあの気持ちに戻ることです。あの時のあの気持ちとは、貰ったから、その分のお返しとか、ギブ&テイクのように、贈られたから、こっちもそれなりものをといった気持ちではなかったはずです。まさに「やめるときも、すこやかなるときも」どんな時も、この人を守ろうと決心したはずです。その気持ちが、今月の聖句の中に込められている意味です。「互いに愛し合いなさい」とは、ギブ&ギブという意味です。互いがそのような気持ちを持って歩んでいきなさいという意味です。そのような人生を昨日も、今日も、明日も、私たちは生きていきたいものだと思うのです。