聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2015年 2月

「あなたがたは、もっと大きな賜物(たまもの)を受けるよう熱心に努めなさい。」                                 (コリントの信徒への手紙一 12章31節)

 聖書が語る賜物(たまもの)とは色々な意味がありますが、主に、能力、才能、与えられている力、権力や地位なども含まれると思います。具体的な例として「使徒預言者、教師、奇跡を行う者、病気を癒す賜物を持っている者、援助する者、管理する者、異言を語る者」という様々な言葉を用いて聖書は説明したります。
つまり、私達には、私達ならではの役割がそれぞれ与えられていて、その役割を出し惜しみせず、十分に用いることが求められている、ということです。けれど、一つ間違ってはいけないことがあります。それは、神様から与えられているあなたの賜物を人と比べたり、比較しないということです。私たちはつい、あの人はいいなと思って比べてしまいます。自分には能力が無いからと肩を落としたり、妬んだりします。あるいは、優越感に浸ったり、心の中で人をバカにしたりします。そんなことをするために、賜物を用いるのではなく、自分に与えられている賜物に感謝することです。
例えば私に与えられている賜物は人より「あきらめが悪い」という所だと思っています。良い表現をすれば、「粘り強い」とか、「高いチャレンジ精神」で生きているとも言えるでしょう。最近、物忘れが激しく、この原稿も、つい忘れていて、ギリギリで園長から叱られてしまいそうですが、別に最近になって物忘れが激しいわけではありません。昔から記憶力には自信がなく、学校の成績はいつも平凡で、決して誇れるものではありませんでした。けれど、その代り、諦めが悪いものですから、人の何倍も勉強しようと思いました。そう思える自分がいることに幸いを見つけることが出来ました。
例えば、私の母親は今、認知症となってしまって一人では生きられません。そのことを自分でもわかっていて、毎日「自分で自分が嫌になってしまう」と嘆きます。中々、慰めの言葉も出ませんが、それでも、私は母親と30年数年ぶりに一緒に生活出来ていることに嬉しく思います。母親が一緒にいるということは、それだけで、子どもにとって母親の賜物なのです。
この文章を読んでいる方は、皆さん母親であり、父親であるでしょう。子どもにとって母親や父親は誰とも代えられない、代えることが出来ない大切な賜物を備えている、かけがえのない存在です。勿論、親にとっては、自分の子どもがかけがえのない存在であることも同じように言えるのです。出来るとか出来ないといったことを超えて、その存在が愛おしい。そこにこそ幸せがあるのではないでしょうか。そのような幸せに生きられる人こそが、自分に与えられている賜物を十分に発揮出来、発揮出来るばかりでなく、更に豊かな賜物を手に入れることが出来、手に入れるばかりでなく、人にも分け与えることが出来るのだと思います。そこで見ることが出来ることは「幸せ」という言葉ではなく、「幸せ」そのものです
皆さん、幸せは「自分持ち」ですよ。素敵な2月を過ごしていきましょう。