菊池牧師による聖書の言葉

文章はドレーパー記念幼稚園で発行する園だよりからの転載

2021年 10月

「あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」   

詩編8編2節)

「あなたの御名は」とありますが、「神様のお名前は」という意味です。いきなりですが、一つ困ったことがあります。聖書の中に「神様の名前をみだりに唱えてはならない」という大切な教えがありますので、人々は、長い間神様の名前をめったなことでは唱えませんでした。その結果、神様の本当の名前が何か分からなくなりました。今も神様の名前については諸説ありますけれど、確実な名前の呼び方はわかりません。

なぜ名前を呼ばなくなったのかというと、名前はそのものを限定してしまうからです。私たちはそれぞれに名前があります。私は「きくちたけひろ」であり、園長は「さたけわへい」です。「さたけわへい」と聞いて、菊池牧師の顔を浮かべる人がいないように、名前はその人を限定し、その人と、その人以外とを区別します。神様に名前があると、神様を限定し、神様の働きを場所的、時間的に限定してしまかもしれません。神様は時間や場所を越えて働かれる方ですから、名前が無いほうが良かったのかもしれません。

でも、それでは神様の実態も良く分からないのでないか?ともなります。けれど、今月の詩編のみ言葉はそうではないと答えているのです。「あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちているでしょう。」とあります。聖書は神様を、天地万物の創造主として伝えます。宇宙、大自然、その中にある様々な要素、空気、水、火、大地、そして生き物の命、特に人間の命、これらの全てを神様は創造されました。画家が完成した作品に自分の名前を小さくサインするように、神様の作品にも神様の名前が小さく入っているのです。つまり、それらは皆、尊く、勝手に扱うことは許されません。自然破壊や、環境汚染は神の創造を破壊し、結局それは人の命を脅かすことにもなります。

私たちの人生にも、神様の御名が刻まれています。結婚は、出会った人との中でしか結婚できないと言われますが、その出会いは決して偶然ではありません。キリスト教に「偶然」という言葉はありません。神様の御心、神様の思いだけが実現していくのです。あなたの妻、あなたの夫、あなたの子ども、あなたの家族は、神様の思いが結実した姿です。神様の御名が力強く、全地に満ちていくために必要なことは、連れ合いを愛し、子どもを愛し、家族を愛し、自分自身を愛することです。

エス様は聖書の中で、神を愛する事、隣人を自分と同じように愛する事、この二つこそが、最も大切な教えであると話されました。愛が忘れられたところでは、対立が生じます。対立は神の創造を分断してしまうかもしれません。大切なのは妥協でもなく、諦めでもなく、服従でもなく、愛することです。それこそが、対立を防ぎ、且つ、神の御名が力強く、全地に満ちるための唯一の方法だと私は思うのです。

2021年 9月

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」   

ヨハネによる福音書13章34節)

 

 今月の御言葉は聖書の中でも良く知られている御言葉の一つです。でも、この御言葉は少し矛盾しています。前半の「わたしがあなたがたを愛したように」とは、イエス様が弟子達を愛したように、という意味になりますが、人々に対するイエス様の愛の表し方は、いつも一方的でした。

 礼拝のために会堂に入られると、汚れた霊に取りつかれた人がいて、霊に対して「この人から出て行け」とお叱りになったら悪霊が大声をあげて出て行ったという話があります。重い皮膚病を患っている人に対して「清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病が癒され清くなったという話があります。生まれつき目の見えなかった盲人を癒したという話もあります。あるいは、当時イスラエルから差別されていたサマリア人の5回結婚生活に失敗した女性の側にいて心を癒したり、姦淫の罪を犯し、捕らえられ命の危機となっていた女性の側にいて命を守ったり、徴税人で街の嫌われ者であった人の家に喜んで泊まりにいったり、誰もが分かるようにと沢山のたとえ話をしてくださったりして、人を愛する大切さを教えてくださいました。

 イエス様の愛はいつも一方的です。一方的とは、「見返りを求めない」という意味です。愛し、癒し、共にいてくださり、励まし、祝福を与え続けます。その人の存在を大いに喜び、生きる希望と社会で生きていく勇気を与え続けてくださいます。

 そのようにして、後半の「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と続きます。でも「互いに」という言葉を、「お互い様」とか「Give&Take」の意味として読んでしまうと矛盾する読み方になってしまうのです。互いが互いを一方的に愛することが大切です。つまり見返りを求めない愛が人を生かすのです。

 子どもが親を絶対的に信頼しているのは、親の圧倒的で、一方的で、無尽蔵の愛が、生まれてからずっと与えられているからです。その愛に少しも疑うこともなく育つ子はきっと健やかです。幼稚園の誕生会で、子どもが親と握手して「ありがとう」と言いますが、なぜ「ありがとう」なのか分からない子のほうがずっと多いはずです。でも、それで良いと思います。

 神様の一方的な愛が、どんな状況でも私達を力付け、励ましてくださるように、私達も愛を与える人として生きていきたいものです。コロナ禍の中、社会が緊張し、硬直しています。不安と不満が渦巻いています。そのような状況でこそ愛を与える人は求められています。あなたもその一人となって、笑顔と元気で愛の配達人として、この時期過ごしていきましょう。

2021年 7月

「勇気をだしなさい。わたしは既に世に勝っている。」   

ヨハネによる福音書16章33節)

「勇気をだす」には大分勇気が必要です。例えば、ダイエットにチャレンジとか、通信教育で資格を取るとか、「よし、やろう!」と思う一瞬もあるけれど、次の日には「無理かな」と思ったりするものです。なぜ、そうなるかというと、潜在意識と顕在意識という言葉で説明したります。潜在意識は、自覚無しの意識で、顕在意識は自覚ありの意識です。人間の意識全部を100%とすると、諸説ありますが、顕在意識が10%で潜在意識が90%となります。海に浮かぶ氷山は全体の10%が海の上で、90%が海の下にあるそうです。丁度同じような割合です。「よし、やろう!」と思うのは自分の目に見える10%の意識です。続かないのは、目に見えない9割の自覚無しの意識が「無理だよ」と告げているからだと言われます。10対90ですから、どう考えても無理になりますね。

 だからどうするかというと、顕在意識も潜在意識のどちらもがGO!となると、長続きするようです。例えば、私は最近6時に家を出て、海老名の北部公園に行き6時30分からラジオ体操、7時に帰宅が習慣化しています。今朝も小雨でしたが傘を持って生きました。いつも5月~7月頃は頑張って、8月の猛暑になるとダウンして止めてしまいます。5月中頃になると、気持ちが今年もやろう!と思い、8月になると、暑くて止めようと思うのです。なぜやろうと思うだけでなく、実行できるかと言うと、去年もやったし、という勇気が出てくるのです、経験からして「出来る」と思うのです。なぜ止めようと思うかというと、去年も止めたし(笑)暑いから無理しないで止めようと思うのです。文章にしているということは、既に顕在意識なのですが、今年も体操に行こうと思う最初の日は、多分潜在意識が強く働いています。「いけるぞ~」って。

 さて、皆さん、潜在意識がどこで成長するかというと、大体6歳頃までの経験からと言われます。6歳頃までの成長過程で聞いたことや、体験し、学んだ事柄が潜在意識(自覚しない意識)となり、物事を見たり、判断したりするようになると言われています。

 私は、たこ焼きが大好きです。子どもの頃、母親と一緒にスーパーに行って、出来立てのたこ焼きを食べるのが至福の時でした。「たこ焼き=至福」となるので、潜在意識が強く働いて、たこ焼き大好きとなるわけです。マクドナルドはこの方式で売り上げを伸ばし続けていると言われます。

 潜在意識が前向きで、肯定的で、ポジティブであればあるほど、つまり、自分って良いなって思っている人ほど、勇気を出しやすいと私は思います。「自分って良いな」って思えるようになって欲しいと思いながら、ドレーパー記念幼稚園の先生方は今日も、明日も、頑張っています。応援宜しくお願いします。

2021年 6月

「野の花がどのように育つか、注意して見なさい。」   

(マタイによる福音書6章28節)

 

 今月の御言葉のテーマは「思い悩むな」です。今月の御言葉の前後を含めて記すと下記のようになります。

 

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」

 

 私たちはいつもどこかで「思い悩んで」います。学生の頃は試験に思い悩み、就職に悩み、就職すると仕事に、そして結婚相手に思い悩みます。相手が備えられて結婚すると、子どもが授かるかどうかで思い悩み、授かると、子育てで思い悩みます。暫くすると、親の介護で思い悩みます。(経験上分かります。(笑))そうなるといつまでもずっと思い悩んでいるかのようです。なぜでしょうか?

 何年か前に、ある方の相談を受けていた時に、私はこう話しました。「私は、自分が子どもの頃に思い描いていた将来像の何倍も幸せになっているので、もう十分です。」

本心からそう思っていたし、本当に幸せでした。勿論、今もそう思っています。その言葉を聞いた相手の目が2倍ぐらいに大きくなったのが印象的でした。凄く驚いたのだろうと思います。

 幸せ感がどこから来るか、というと聖書の今月の御言葉からなのです。私たちは「思い悩みます。」過去を悔やみ将来を心配します。心配の種が「悩みの種」となります。

 でも大切なのは、過去でも将来でもなく、現在を幸せに生きることです。悩みが無い人は確かにいないかもしれません。人には欲も、プライドもありますから悩みはいつもあるのです。でも悩みに支配されるのではなく、今が一番幸せだと信じて生きていくことです。幸せに生きている人だけが、幸せな人生を歩むようです。

 もし「思い悩み」が10㎏であったとすれば、幸せ感が5㎏だと、思い悩みに引きずられてしまいます。でも幸せ感が15㎏だとすれば、10㎏の思い悩みに引きずられません。幸せ感が100㎏だとしたら、10㎏ぐらいの「思い悩み」にビクともしません。

そのようにして、思い悩みがちになる人は、「幸せ感」を強化していきましょう。ジムに行って筋肉を鍛えるように、心の筋肉を鍛えることです。鍛え方が分からない方は、「聖書に親しむ会(在園児保護者のサークル)」にどうぞ(笑)

生きていると悩みは尽きません。でも自分が自分で良かったと思えるなら大丈夫です。

私たちは生きている、というよりは、大いなる方に生かされているのですから。

 

2021年 5月

「神は愛です。」   (ヨハネの手紙一 4章16節)

 最近、エッセーのような小説を読みました。その中にフランスに住んでいるエッセイストの女性が登場します。フランス人の彼がいて、毎日のように「愛している」と言われていました。でも日本人の彼女は、日本人は滅多なことでは「愛している」とは言わないのに、と少々ウンザリ。あることがきっかけとなり、決意して彼と別れたことにしようと、黙って日本に帰って来てしまいました。それで全てが終わったと思っていました。

 それから5年後、彼女は「日本人は滅多なことでは愛しているとはいわない」といった内容のエッセーを本に載せます。すると、フランス人の彼から連絡が入ります。黙って帰国した彼女を追って日本まで来て、語学教師をしながら彼女を長く探し続けていたことが判明するのです。彼はエッセーを読み、ペンネームで名前は違うけれど、彼女だと確信して、出版社に連絡を取ってついに再会の運びとなるのです。

フランスと日本、大分距離もあり、言葉の感覚も違いますが、「愛」が本物なら心の距離がグン!と近くなり心の絆がつながるのでしょう。

 コロナ禍にあって、緊急事態宣言が延長されると報道されています。今年の1月、正月過ぎに緊急事態宣言が出され、それが3月末まで続き、終わって、ホッとしたのもつかの間、4月末からまた緊急事態宣言となりました。私達の地域はギリギリ宣言下ではありませんが、厳しい状況は少しも変わりません。GW中に、江の島に人が沢山集まり、心配な状況との報道もありました。緊急事態宣言慣れとか、コロナ疲れとか、とも言われています。問題点も沢山あると思いますが、行政と私達国民との距離の問題があるのではないかと、私は思っています。行政が本当に「愛」をもって、私達のことを考えているのだろうか?考えていないのではないのか?と思うと心の距離がどうしても遠くなるのです。どんなに綺麗な言葉を並べられても、本当には愛していないのでは?と思える人の言葉は、心に響いてはきません。ましてや、最初から愛を感じない言葉は全く持って力が無いのです。

 

 今月の聖書の御言葉は「神は愛です」です。短いです。二千頁もある聖書の中の五文字です。この言葉に聖書の内容が詰まっている、と言われるほどに大切な御言葉です。ですからそのままを受け止める方もいると思いますが、「神は愛です」だからどうした?となる方も多いと思います。流石にこの言葉だけでは、神様の愛の正体が響いて来ないと感じるからだと思います。

 この御言葉は「ヨハネの手紙」という箇所に記されています。ヨハネはイエス様の弟子で、イエス様から最も愛された弟子でした。レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」ではイエス様のすぐ横に描かれています。迫害を受けながらも生き残り、生涯を主イエスの福音宣教の為に尽くした人でした。自分の命をかけても惜しくないと思える程に、イエス様の愛がヨハネの心を捕えていたのでしょう。 

 イエス様の愛を伝えずにはおられないとの思いでもって、ヨハネは「神は愛です」と記したと思います。「愛」は文字を越えて、人の心と、人の生き方に良い影響を与えます。「愛」は言葉を越えて、人を生かし、希望を与え続けます。神様の愛を受け入れ、家族にその愛を分け与えながら生きていけたらどんなに素敵でしょうか。

2021年 4月

「わたしは良い羊飼いである」   (ヨハネによる福音書10章11節)

 「わたしは良い羊飼いである。」この御言葉は、イエス様が周りで聞いていた人々に向けてお話されていた時に用いた御言葉です。その意味は「あなたがたを良く知っている」ということです。

 私の家族は子どもが三人います。長男は25歳、流暢な言葉を用いて人を楽しませることが出来ますが、人見知りが激しく、体もそれほど強くないので案外内向的です。次男は21歳、言葉遣いは上手ではありませんが、誰とでもすぐ友達になれる特技を持っています。11年前に綾瀬に引っ越して来た時5年生でしたが、登校日初日に帰って来てすぐ「友達の家に遊びに行って来る」と言って、嬉しそうに出て行きました。親のほうが驚きました。三番目は長女です。大学生になりました。気難しく、生意気な言葉ばかり使います。でも本当は自信がなく、恐ろしく内向的で唯一の友達は飼っている猫です。同じ性格の超内向的な猫は、娘だけが頼りの日々を送っています。

 子どもたちが成長して改めて思いますが、兄弟でも、それぞれの性格、個性は全く違います。人の性格は、1,生まれ持ってのもの 2,生まれた社会から受ける影響 3,親や家族から受ける影響、等によって、出来上がると言われます。でも、同じ家、同じ親、同じ環境で育っても、性格や考え方が全く違うところを思うと、生まれ持ってのものが大きいのかもしれません。

 それぞれ個性を持って生れて来た子ども達を、画一的に育てることは出来ません。時々「子ども達をみんな同じように育てられない」と相談を受けたりしますが、むしろ当然なのではないでしょうか。

大切なのは、その子の性格や、考え方に添った子育てかもしれません。

 それが出来るのは、誰でもなく、親である私達です。子ども達のことを、誰よりも良く知っています。生まれた時から、成長する中で起こったあの事、この事、全てを知っているからこそ個性を大切にする子育てが出来るのです。

 良い羊飼いと言われるためには、羊が何匹いるとしてもその顔を見ただけで、違いが分かり、羊の特徴を知り、一匹たりとも見落とすことがない集中力が求められるでしょう。夜も寝ずの番をして、野生の熊や狼、泥棒から守る体力も必要です。更には羊からだけでなく、羊の持ち主との信頼関係力も求められます。それらの全てを兼ね備えてこそ「良い羊飼い」と言われるようになります。

 イエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われました。イエス様が羊飼いなら、私達は飼われている羊です。主イエスは、私達一人一人の性格、思考、悩み、不安、全てをご存知です。これまで誰にも話したことの無い、あの事、この事さえご存知です。良く知っているからこそ、「良い羊飼い」として共にいて下さいます。

この方の神の愛に包まれながら、これからの一年、私たちは幼稚園で一緒に過ごしていきましょう。子ども達が見せてくれる確かな成長と共に、私達も豊かに成長していきましょう。2021年の一年間も、宜しくお願いします。

2021年 3月

「わたしは必ずあなたと共にいる。」   (出エジプト記3章12節)

 

 聖書の最初は「創世記」が記されています。二番目が「出エジプト記」です。そこに登場するのがモーセという人です。モーセは何者かというと、神様に見出されて、エジプトで奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの凡そ60万人の民を救い出し、元々、自分達の土地であった場所を目指して40年間荒野を進んだ指導者として生きた人です。イスラエルの英雄の一人です。

 けれど、モーセは当初、その働きを嫌がりました。ミディアンという田舎の地方に住み、家族と共に小さな幸いを過ごしていたモーセでしたが、主なる神様がモーセに声をかけます。「モーセよ、わたしは、エジプトで苦しむイスラエルの人々の叫びを聞いた。あなたはエジプトにいるイスラエルの同胞である仲間を助け出しなさい」でも、モーセは驚き、怯んで、「どうして、わたしが」と神様の御言葉を拒み続けます。何度も拒むのですが、その度に、神様はモーセを励まし、「わたしは必ずあなたと共にいる」と力付けるのです。結局、熱意に負けるようにしてモーセは決心し、イスラエルの民を救い出すことになります。迫力のある箇所ですから、時間のある方も、無い方も是非読んでいただければと願います。

 

 さて、私たちの人生にも、モーセと共におられた神様が必ず一緒におられます。私たちが生まれた時、必ずいるのはお母さん、お父さん、家族です。家族の愛情に包まれて、私たちは確かな成長を遂げて来ました。けれど、ある時期に、私たちは親から離れ自分のパートナーを求めて社会に出ます。社会に出るのは自活、自立の為でもありますが、それ以上に、自分の人生を共に歩んでくれるパートナーを求めて社会に出る、と言っても過言ではないでしょう。

 幸いにもパートナーと巡り合い、めでたく結婚、更に幸いなことに、子どもを授かり、家族が増えて、時にはパートナー以上に子どもに夢中になったりしながら、確かな家庭を築こうとします。

 けれど、気が付くと、子どもは成長し家から出ていこうとするし、元気だったはずの両親は年老いて、自分達が世話する番になるのです。更に、孫と楽しく過ごしているうちに、あっちこっち体にほころびが出て来て、ついには子どもや孫の世話になりながら、あっという間に神様のもとへと旅立つ準備となります。

 

 私たちの人生で確かなものは何でしょうか。幼い時は、父、母はいつも、どんな時も一緒にいてくれる人でした。幼子からすれば世界一の父、母です。ところが、成長すると、選んだパートナーこそ自分と一緒に歩む相手であると決意して結婚し、家庭を築く。その家庭こそ、生涯続くものと思いながら生きるのです。けれど、ある時に気が付くのです。父も、母も、パートナーも、子どもも、自分の人生といつもずっと一緒にいるわけではないということに。

 

 今、認知症の母を抱え、子ども達が巣だって行こうとする姿を見ながら、私は改めてそのことを思います。

そして、自分の生涯を共に歩んで下さるのは、モーセと共にいて下さった神であり、主イエス・キリストを通して示された神様、この方だけが、「わたしはあなたと共にいる」と告げて下さり、どんな時も一緒にいて下さる方であることをつくづく思います。この方の支えがあってこそ、親にも、パートナーにも、子どもにも、どんな時にも、どんな状況でも、確かな愛を与え続けられるのだと私は思っています。