聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2019年 12月

「光は暗闇の中で輝いている。」     ヨハネによる福音書1章5節

 今から57年前にドレーパー記念幼稚園は開園しました。幼稚園の設立にあたり、当時の牧師であった乙幡(おつはた)和雄(かずお)先生と、教会員の角田敏太郎さんという方が中心となって働かれました。角田さんは昨年の11月29日、アドヴェントを前にして天に召されていかれました。86歳の生涯でした。

 先日の11月30日に、敏太郎さんのご家族と一緒に記念会を行いました。改めて敏太郎さんの生涯を振り返る時を持ちました。敏太郎さんは「神に牽引(ひか)れて」という著書を残していますが、その中に、人生で四回挫折があったと記しています。一つ目は、軍国少年として育ちお国の為にと願っていたにも関わらず、日本が戦争に負けてしまい願いが適わなかったこと。二つ目は、15歳の時に父親が天に召されたこと。敏太郎さんは15歳で喪主を務め、それ以降は家族のために働こうと決心されたようです。けれど、三つめ16歳の時、勤め先の国鉄(現在のJR)で、幹部候補生となり、国鉄の幹部養成学校に入学する数日前の仕事中、大きな事故に遭い、片足を失ってしまったこと。この出来事が敏太郎さんにとって最大の試練であったと思います。それでも九死に一生を得て、その後も懸命のリハビリを続け、ついに職場復帰を果たしますが、既に幹部となる道も閉ざされ、完全に生きる目的を失い、お酒を飲みながら仕事をしたこともあったようです。更には四つ目として、この大けがの後遺症のために体のあちらこちらに変調をきたし、何度も入院、手術を繰り返しながら、ついに45歳で職場を去らなければならなかったこと。この四回の挫折は、いずれも自分が思い描き計画していた自分の将来が閉ざされたことを意味しています。

 けれど同時にこれらの総ては、トータルしてみると必ずしも不幸の連続であったとは言えない、とも記しています。というのは、「キリストによる救いを敏太郎がいただいたからである」とまとめられてあります。神様は一方の道を閉ざされる方であるかもしれませが、思いもよらないもう一方の道を開かれる方です。敏太郎さんが立ち直るきっかけとなったのは、当時、厚木基地の中にあった教会に導かれ、更にそこから大塚平安教会を紹介されて、教会にやって来たことによります。教会の中で「闇の中に輝いている光」を見つけたのです。イエス・キリストの光を見つけたからです。この光を一人でも多くの人々に見せたいとの思いを抱き、牧師と共に、幼稚園設立に尽力されて、ドレーパー記念幼稚園を立ち上げ、生涯に亘り幼稚園の理事として重責を担って下さいました。

 「光は暗闇の中で輝いている。」私たちは、普通に自分の人生は自分のものと思っていますが、案外自分で決められることは少ないのです。誰も女性にとか、男性にと願って生まれて来るわけではありません。生まれたら女の子であり、男の子です。親も子供を選ぶことは出来ませんし、子も親を選べません。どの時代に生まれるのか、どの場所に生まれるのかも決めることも出来ません。誰一人として日本人にと願って生まれて来たわけでもありません。あるいは必ずしも丈夫な体でないかもしれません。ですから、私たちは与えられている状況の中で生きて行くしか道はありません。けれど与えられている状況はどうでしょうか?

 敏太郎さんが四度の「闇」を経験したように、私たちもまた「闇」の中を歩む思いをすることがあるのではないでしょうか。しかし「人には出来ないけれど、神には出来る」と言われた御子イエスの誕生は、神様が、私たちに神の光を見せて下さった出来事であったと思います。状況に生きるのではなく、神の光の中に生きていきましょう。どのような時でも大丈夫、なぜなら神様が私たちと共に、いつも一緒にいて下さるからです。クリスマスはもうすぐです。

2019年 11月

「同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」

              フィリピの信徒への手紙2章2節

 毎月一度「聖書に親しむ会」が行われていますが、10月に行われた会では、ルカによる福音書10章に記されている「マルタとマリア」というタイトルが付けられている箇所を読みました。内容はそれほど難しくはありません。イエス様と弟子たちが旅をする中である村に入りました。そこにはマルタとマリアという姉妹の家があってその家に立ち寄りました。主は以前からこの姉妹とは親交があり、マルタもマリアも主イエスをとても慕っていたと思われます。姉妹は主イエスの一行を喜んで迎え入れ、姉のマルタはもてなしの為に色々とせわしく立ち働きましたが、妹のマリアは主の足元に座って、主の話に聞き入っていました。そのうち、マルタは自分だけが忙しくしているのに気がつき、妹は何もしないのに苛立ちはじめて、思わず主イエスにこう言ってしまいます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」マルタは、主イエスの口からお姉さんを手伝うようにとマリアに伝えて欲しかったのでしょう。けれど主は答えてこう話しました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 イエス様は、マリアに手伝うようにと言わないばかりか、マルタに対して「必要なことはただ一つである。」と話されたわけです。この必要なただ一つのことは一体何か?という話しを聖書の会で話してみたわけです。皆さんは、「ただ一つの必要な事」は一体何だと思われますか?

 先に答えを記してしまいますが、それもそんなに難しくありません。「同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、喜ぶ」ことです。一緒に「喜ぶ」ことです。マルタは、主イエスの一行を迎え入れて、一人で台所に立って、食事等を作っていたのでしょう。きっと当初は喜びに満たされていたと思います。けれど、いつの間にか手が回らなくなり、忙しさから不満が出て来て、手伝わないマリアに対して怒りまで感じ、ついに主にキレてしまったのでしょう。喜びをもって行っていても、いつの間にか不満が出て来る。不満どころか、怒りが出てきてしまう。そんな経験のある方、多いのではないでしょうか。

 私が結婚式の司式をするときは、新郎、新婦にこう尋ねます。「今から後、幸いな時も、災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、共に生涯を送ることを約束しますか。」幸いなことに、これまで約束しませんと言った方は一人もいません。(#^^#) ですから、私が司式したカップルはどのお二人も幸せに過ごしている「はず」です。でも、現実にはどうでしょうか。ある有名な先生は、「結婚後は、三日目、三週間後、三か月後、三年後が危機である。その後は、毎日が危機である。」と教えてくださいました。この文書を読んでおられる方の中には、そんな方はいらっしゃらないと思いますが、もしいるとしたら、大切な一つのこと、それは「喜んでいる」こと。この言葉をしっかりと胸に納めて欲しいと願います。どんな状態であっても喜ぶことです。喜んでいる人のところに、幸いは「こんにちは」とやって来ます。怒っている人のところでは、幸いは「さようなら」と言うかもしれません。喜んでいるお母さんの笑顔は、子どもにとってみれば、さながら「天使の笑顔」です。 私たちはそのようにして、「同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」11月も過ごして参りましょう。                          

2019年 10月

「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び」

                      マルコによる福音書4章8節

 イエス様は、人々に分かり易いようにと、色々な「たとえ話」を用いて話をして下さいましたが、その中でも、特に多くの人々から親しまれているたとえ話が「種を蒔く人の」たとえです。

 「種を蒔く人が、種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽をだした。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。」そして。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われた。聞く耳のある人とは、このたとえ話を聞いて、30倍、60倍、100倍の豊かな人生を送るようにと理解した人々なのでしょう。

 当時の農業は、とてもシンプルで単純なものでした。フランスの画家でミレーと言う人が「種を蒔く人」という絵を描きました。皆さんもご存知だと思います。ミレーは、自分が幼かった頃に、畑で働いていた父親の姿を思い浮かべて描いた、とも言われていますが、今月の、このたとえ話が頭の中にあっただろうとも言われています。その絵は、一人の人がただ種を蒔いているだけです。畑を耕して畝を作り、そこに少しずつ蒔いていくようなことはしません。手に握った種をただ畑の中に蒔きちらしているようなものです。ですから種は色々なところに落ちました。ある種は道端に、違う種は石だらけの所に、別の種は茨に落ちました。それらの種は鳥が来て食べたり、ちょっとだけ芽がでても根が成長しなかったり、結局は上手く育たなかったというのです。でも良い土地に落ちた種は、芽生え、成長して実を結び、30倍、60倍、100倍の収穫があった。イエス様はこのたとえをご自身で説明しておられます。それによると種を蒔くとは、神の御言葉を蒔いているのであり、種は私達です。神の御言葉を聞かず、実りをもたらさないか、神の御言葉を聞いて、豊かな実りを実らせるのかのどちからだということでしょう。

 私達には夢も希望もあります。種とは夢と希望のシンボルです。リンゴ一個の中に種がいくら入っているのかを数えようとしたら出来るでしょう。でも、その一粒の種が成長し、豊かなリンゴを幾つも実らせた時、もうその時にはとても種が幾つあるのか数えることは出来ないでしょう。そのように、あなたも神様の御言葉をしっかりと聞いて、沢山の実りがあるように生きなさいと教えておられるとも言えます。

 最近、息子から影響を受けて「back number」というバンドの歌を聞いたりするのですが、その作品の中に「僕が今できることを」という歌があります。歌詞の中に「僕らは 優しい人に支えられて いつの間にやら誰かの分まで 生きなきゃいけない気がするけど 涙も汗も一人分しか流せない だから自分の思うように 僕が今できることを」という箇所が大好きです。 

 イエス様が話される30倍、60倍、100倍という言葉は、きっと誰かとの比較ではありません。誰かの分まで生きなさい、という意味でもないように思います。むしろ、自分一人がその日、その時を精一杯、一人分生きることが大切で、それが積み重なって、いつの間にか、自分の思っていた何倍もの幸いを生きている。そんな人生が求められているのではないかとも思うのです。まずは、自分が光り輝き、豊かになるために、神様から与えられた一人分の人生を精一杯生きて参りましょう。そこからあなたの、新しい幸いが、また動き始めるはずだと私は思います。

2019年 9月

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」                          ルカによる福音書5章4節

 イエス様が、湖の湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せました。群衆を前にしてイエス様は漁師の舟があったので、シモンの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼み、そこで舟に腰を下ろして人々に「神の国の良き訪れ」を教え始められました。

話し終えられた時、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは驚いて「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えて、網を降ろして漁をしてみたところ、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったというのです。

 

 その出来事に、更に驚いたシモンはイエス様の足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」と言ったというのです。その後、シモンは主イエスの弟子となり、聖書を読む者にはなじみ深い弟子の一人である、ペトロと呼ばれ、主の働きのために活躍する人となります。

 

 この夏休みに、私と連れ合いとでスイスとフランスに行って来ました。電車で500年前に、宗教改革が行われたスイスの町々を巡りながら、フランスに入り、最後はパリで過ごして帰国して来ました。費用も大分掛かり大変でしたし、全部、私がプランを立てて、飛行機のチケットや電車、宿等の予約は済ませてありましたが、実際の所、それ以外の準備は全くしていなかったに等しい程でした。出かける数日前に旅行バックを購入して、出かける前日に「地球の歩き方」のスイスとフランスを購入しました。連れ合いが飛行機の中でそれを読み始め、旅行期間中ずっと、その本とにらめっこしながら、旅を続けました。私は、英語はともかく、旅のフランス語会話という本を購入したところ、案外良く出来た本だと思われて、これ一冊で用が足りるだろうと思っていたのですが、なんと、家に置き忘れて、頼りのスマホは殆ど圏外で使用出来ず、頼る人もおらず、完全に実力だけで旅を続けることになりました。当初、少し緊張しましたが、結局は、ものすごく楽しい旅行になりました。

 

 連れ合いは、認知症になった私の母の面倒を何年も見ていてくれていますし、義母も90歳で一人暮らしをしていまして、週に一度は東京まで通っています。長年のストレスと疲れが溜まっているのは確実で、少しでも癒して貰えればと願っての旅行の計画でしたし、きっと旅を満喫してくれたと思います。一つ一つの出来事がものすごく楽しい思い出です。

 

 さて、何を伝えたいのかというと、今月の聖書の御言葉の意味は一つです。主イエスの御言葉を聞いて「やるのか」、「やらないのか」ということです。シモンは漁師で、イエス様は漁に関しては素人だと思います。ですから、網を降ろしてみなさいと言われても、自分の知識と経験からすれば、絶対に獲れないだろうとシモンは思ったでしょう。でも、主イエスの励ましの御言葉を聞いて力付けられて「お言葉ですから」と網を降ろしたのです。その結果、魚が獲れました。偶然かもしれません。でも大切なのは、「やってみよう」と思う前向きな気持ちです。やってみた者だけが経験する世界があり、やってみた者だけが、実際に体験して、本物を見ることが出来るのです。皆さん、皆さんのお子さんに、ご家族に、やってみる勇気と、前向きな精神をしっかりと伝えていきたいものです。9月も元気に過ごしていきましょう

2019年 7月

「まことの光が輝いているからです。」  ヨハネの手紙一 2章8節

 「まことの光が輝いているからです。」という御言葉に続いて、聖書はこう記しています。

「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」

 兄弟とは隣人という意味です。隣人とは、両親であり、兄弟姉妹であり、夫であり、妻であり、子どもであり、同僚であり、自分の人生と共に歩んでいる全ての人たちです。そのような「兄弟」を憎む者は、今もなお「闇の中にいる」とは随分厳しい教えのように思います。

 とはいえ、最近、神奈川県内の、割と近い所で、恐ろしく、また悲しい事件が何件も起こりました。悲しい事件を起こしてしまう人たちの心は、きっと暗闇です。でも、私も、暗闇ではないけれど、なんだか薄暗いかな。と感じている人々は、きっと沢山いるのではないでしょうか。

 薄暗さを感じている人の特徴は「不安」を抱えているということです。先日、大塚平安教会では、特別な礼拝を行いました。もうすぐ90歳となる青山学院大学名誉教授の関田寛雄牧師をお招きしてお話を伺いました。関田先生は私の学校の恩師でもあります。とても愛して下さった先生で、今でも親しくさせていただいています。教会にお招きして、二人で話をしている時に、ある話が出ました。

 26~7年前の話です。当時、神学生だった私の、学年では三つ上の先輩がいて、先輩と言っても当時で60歳近い方でしたが、その方が最近天に召されたのです。でも、召されるまで現役の牧師をされていました。その方がまだ学校を卒業する一年以上も前に、体調を崩し、検査の結果、癌であると分かりました。緊急の手術をして、一命を取り止めましたが、その後も抗がん剤治療の生活となり、治療しながら学校に通っておられました。もしかしたら出席日数は足りなかったかもしれませんが、学校も事情が分かっている上に、なによりも抜群の成績でしたので、進級が許可され、最終学年となり、ついに卒業も認められました。赴任する教会も決まったところで、その先輩は関田先生を訪ねました。そして、誰にも言えなかった不安を打ち明けました。「先生、私は癌の治療をまだ行っています。このまま赴任先の教会に行っても良いのでしょうか。行っても役に立たないかもしれません。ただ迷惑をかけるだけかもしれません。どうしたら良いのか、とても迷っています。」と相談したそうです。関田先生はその時、こう答えられました。

「あなたの不安は良く分かります。それでも教会が来て欲しいと願っているのですから、教会に行きなさい。行って、一度だけでも良いからその教会の礼拝で神様の御言葉を取り継ぎなさい。もし、それで倒れたとしても、あなたは十分に神様のお役に立っていると思います。たった一度でも十分なのです。」と言って励ましたそうです。その関田先生の励ましによって、先輩の不安は消えて、決心して、教会に赴任し、依頼27年間、元気に現役生活を全うされました。召される一か月前までは本当に元気だったそうです。

 あの時、もし、関田先生の励ましが無かったら、その方の生涯は違っていたかもしれません。

 今、多くの方が「まことの光」の御言葉を見失っているかのように感じます。まことの光は、その人に暖かさと明るさと希望を与え続けておられます。私たちはその光にふれて、薄暗いなぁと思っている心があるとしたら、新鮮で澄み切った光の中に入って、前向き、肯定的な心となって、笑顔で、今日も、明日も、明後日も、神の光の中で、兄弟を愛し、隣人を愛し、子どもたちを愛して過ごしていきましょう。

2019年 6月

「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ」  詩編150編6節

 詩編は、全部で150編の詩が収められています。今月の聖書の箇所は、その最後の150編が取り上げられ、しかも6節は詩編の中の最後の締めくくりの言葉です。その締めくくりの言葉の前に1節から5節が記されています。1節は「聖所で 神を賛美せよ。大空の砦で 主を賛美せよ」とあります。この御言葉はどこで賛美するかが歌われています。それは「聖所」であり、「大空の砦」です。聖所とは礼拝の場とも言えます。大空の砦とは、聖所に限らず、どこでも、です。家で、職場で、山で、海で、子どもの送り迎えに、どこででも、主を賛美する大切さが示されます。2節は「力強い御業のゆえに 

 神を賛美せよ。大きな御力のゆえに 主を賛美せよ。」です。それは、なぜ主を賛美するのか理由が示されます。神の確かな力に守られて、健康が支えられ、家庭が祝福され、子供たちが健やかな成長を遂げている。だから、主を賛美するのです。

 

 3節から5節は「角笛を吹いて 主を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて 主を賛美せよ。太鼓に合わせて踊りながら 神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて 神を賛美せよ。シンバルを鳴らし 神を賛美せよ。シンバルを響かせて 神を賛美せよ。」と記されます。ここには神を賛美する方法が記されています。角笛はラッパという意味です。昔、スイスでホルンを吹かせてもらいましたが、全く音が出ませんでした。口の使い方一つで色々な音や響きが出るのでしょう。琴とは弦が10本張られている楽器のようです。日本の琴のイメージとは少し違うかもしれません。竪琴とは、恐らく現代のハープの原型ような楽器であったと思われます。イスラエルの二代目の王、ダビデは竪琴の名手であったと言われています。きっと素敵な音色を奏でたことでしょう。更に太鼓に合わせて踊り、弦をかき鳴らし、笛を吹いて 神を賛美する。ただ音楽を奏でるだけでなく、体全体で心を込めて皆が一生懸命にという印象を受けます。シンバルの音はきっと賑やかだったでしょう。

 

 この様子は、祭司たちも、集まる民衆も、それぞれに得意な楽器を持ち、音を奏で、また、踊りを踊りながら、笑顔で、楽しみながら神を賛美する姿を思わされます。そして、6節「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。」この意味は、ボーカル、つまり歌声です。楽器に合わせ、踊りに合わせ、リズムを取って、素敵なハーモニーを響かせて、皆で声を出して主を賛美している姿を表しています。実に楽しそうです。「息あるもの」ですから、人間だけでなく、動物も、鳥も、虫も全ての生き物がこぞって、神に向かって賛美の歌声を上げている、とても愉快で、素敵な映像が脳裏に浮かびます。

 

 礼拝とは、きっと本来的には、音楽、踊り、歌声、笑顔、喜び、感謝、平和、祝福、私たちを、息あるものとしてくださった神様に対する感謝と喜びの表現だとも思います。現代の礼拝は少し、そういった面が薄らいで真面目すぎるのかもしれません。でも、大切なのは「大空の砦で」つまり、どこでも神に賛美することは出来ます。

 だから皆さん、家庭でも、職場でも、人との付き合いの中で、笑顔、喜び、平和、祝福を忘れてはなりません。息ある私たちが、神様の大きな恵みの中で、「主を賛美」していきましょう。それぞれに、それぞれの場所で、それぞれの方法でもって、神様に喜ばれていることを喜んで、満たされた人生を歩んでいきたいものです。

2019年 5月

「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」 

                 ヨブ書41章3節

 

 アメリカでのお話です。ある町のスラム街で育った双子がいました。スラム街ですから貧困の街であり、ろくな食事もなく、教育も受けられません。大きな原因は仕事が無く収入が無いことです。だから、皆が貧しく、皆が生きるのに困り、疲れ果てるのです。

 そんな地域で育った双子が成長して、何十年後かにどんな成長を遂げて、どんな生活をしているのか、二人の人生を調査したそうです。1人は、殆ど予想通り、様々な悪さをして、刑務所にいたそうです。インタビューの受け答えで、貧しく生まれ、ろくな教育も受けず、最悪の環境の中で育ち、仕事もなく、そんな条件の中で、彼は「自分がこうなる他の、どの道が私に与えられていただろうか」と答えました。こうなるのは必然だと言ったのです。

 さて、双子のもう一人は大学で教員をしていました。同じようにインタビューの受け答えで、貧しく生まれ、ろくな教育も受けず、最悪の環境の中で育ち、そんな状況の中で、彼は「自分がこうなる他の、どの道が私に与えられていただろうか」と全く同じ答えを告げました。もうこうなるのは必然なのだと言ったのです。

 双子、同じ生まれ、同じ教育、最悪の環境、皆同じです。では何が違ったのでしょうか。それは、「考え方」です。1人は、最悪の環境の中で育ち、何の社会的恩恵もなく、だから、自分は悪さするしか生きる道は無いと考えたのでしょう。もう一人は、最悪の環境、何の社会的恩恵もなく、だから、自分は人より勉強して、なんとか頑張って生きていくしか道はないと考えたのです。同じ条件でも「考え方」が違えば結果は違う、当然だと思われますか?

 神様は、私たちに命を与えて下さいました。私たちに同じ太陽でもって照らし、同じ雨を降らせてくださいます。全く同じ条件です。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」この御言葉は、旧約聖書ヨブ記という箇所の中で、神様ご自身が主人公のヨブに語り掛けている御言葉です。

 もともと、ヨブは裕福で財産も沢山あり、多くの娘、息子に恵まれて幸せに生きていました。神様に対しても非常に謙遜に、毎日、自らの、また家族の罪を悔い、祈りを献げていました。

 ところがある時、突然ヨブに不幸が訪れます。災害や盗賊によって、次々と家族を失い、財産を失い、自分も死ぬほどの病気となるのです。当初「私は裸で母の胎を出た。だから裸でかしこに帰ろう」と言って、神を呪う言葉を決して話しませんでした。けれど、状況がどんどん酷くなるにつれて、さすがのヨブも疲れ果て、「神様、もうこのまま死なせてください」と訴えるようになります。あるいは自分は悪くないと主張するようにもなります。でも、自分が悪くないのであれば、神が悪いとなるのです。

 その後、神はヨブのところに現れて、「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」と告げられた時、ヨブは自分の過ちを知るのです。それは、与えられている条件によって人の生き方が決まるのではなく、与えられている条件をどう受け止め、考えるのかによって生き方が変わるということです。

 神様に与えられている家族、子供、環境は、実際のところ、それぞれに違います。けれど、その違いによって幸せだったり、不幸だったりするのではなく、あなたの「考え方」によって幸せ度が大きく違うのです。

 大切なのは、「幸せは自分持ち」ということです。皆で、神様に守られ幸せに過ごしていきましょう。