聖書の言葉 幼稚園保護者向け

2023年3月までの文章は菊池牧師、2023年4月からは小林美恵子牧師による文章です。

2019年 1月

「求めなさい、そうすれば与えられる」

                マタイによる福音書7章7節

皆さん、新年明けましておめでとうございます。2019年の1月、聖書の御言葉は「求めなさい、そうすれば与えられる」です。この御言葉は続きがありまして「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」となります。イエス様が多くの群衆を前にして教えて下さった素敵な御言葉だと思います。

東京にある自由学園という学校をご存知の方も多いと思います。「真理はあなたたちを自由にする」という聖書の御言葉から命名されています。「いのち」と「意志の自由」を尊重しようと考えている学校です。創設者である羽仁もと子先生がこんな言葉を記しているそうです。「人生を生きていくのに、二つの動力が動いています。一つは「やってみよう」という力である。よし、やってみようと自分で自分を励ます力です。もうひとつは「やってみたってどうせだめさ」と、やろうとする心を抑える力である。このふたつの力が人生においていつも働いており、そのためにわれわれは苦労するのだ。」

私は、この文章の前後も読んでいませんし、文脈がどう成り立っているのか正直わかりません。けれど、羽仁さんは、学校の教育者ですから、教育者として書かれたと推測するときに、一つ思い出したことがありました。

私の友人に塾の経営者がいて、出来る子は出来る子なりに、出来ない子は出来ない子なりに、教えるのがモットーだと言っていましたが、ある時、どんな子どもに教えるのが大変なのか?と聞いた時に、彼は「自分に自信を持っていない子ども」と即座に答えました。良い意味での自信を持っていない。つまり、子どもといえど、これまで生きて来た中で、成功したこともあったであろう、失敗した事もあったであろう。しかし、あまりにも成功することが少なく、少なすぎるゆえに、どうせやっても無理と最初から、自分で自分を決め付けている子を、「やってもむりさ」と思っている子を、やればやっただけの成果が出るのだと思わせるまでの努力が大変だというのです。だったら塾に来る前に、うちの子どもの教会に来させればいいじゃないと話したら、笑って、そうかもねと言っていました。

この話は何も、子どもの話しをしているわけではありません。聖書の御言葉の話しです。「求めなさい、そうすれば与えられる。」とはもっと具体的には、求め続けることです。探しなさいとは探し続けることです。門をたたきなさいとは、門をたたき続けることです。

子どもを育てるとは、一人の人間を育てることです。しかも、親として関わりを持てるのは本当に素晴らしいことです。けれど、時々親は、子どもも「一人の人間」であり「いのち」を持っていることを忘れてしまうことがあって、それは特に親の話を聞かないとか、聞いてもやらないとか、やっても適当とか、ついイライラして「なんであんたはそうなの!」とか「なんで出来ないの!」という言葉をかけている時かもしれません。皆さん、お気をつけあれ。「やってもむりさ」と思ってしまわない子育て、求めれば、必ず与えられるという粘り腰の心を成長させる子育てを目指していきたいものです。皆さん、そうはいっても「やっても無理!」(笑)と思わないでくださいね。 今年も元気に頑張っていきましょう。

2018年 12月

「学者たちはその星をみて喜びにあふれた」 マタイによる福音書2章10節

キリスト教の暦では、一年の始まりはクリスマスの四週間前の週、御子イエスの誕生を待ち望むアドヴェントからとなります。2018年は12月2日(日)からが新しい一年の始まりと考えるわけです。クリスマスは12月25日です。クリスマスというと24日の夜、クリスマスイブが、一番の盛り上がりと感じている方もいると思いますが、正確には当時のイスラエルの考え方は、日没で一日が終わり、そこから新しい一日が始まりますから、24日の日没と共に25日になるわけです。つまり、私たちがイブと考えている時間帯は既に25日になっているわけです。私たちは夜の12時に日にちが変わると思っていますから、なにか慣れない感覚ですが、正確な時計も無かった時代にはとても分かり易い考え方であったと思います。

更に、クリスマスの時期は、御子イエスの誕生からがスタートですので12月25日からがクリスマスです。私たちの国では25日が過ぎるとお正月一色になってしまいますが、実際はその時期こそクリスマスの時、年が明けて1月6日までクリスマスは続きます。キリスト教国と呼ばれる国では新年もクリスマス行事の中に入るわけです。この感覚も日本人の私たちにとっては、変な感じではないでしょうか。

なぜ1月6日なのかというと、25日の夜に、東の国で夜空を見ていた占星術の学者たちが、不思議な星を見つけ、その星を調べたところ「ユダヤ人の王」が誕生された印であるとわかりました。喜んだ学者たちは、ユダヤ人の王に会って礼拝をするために旅立ちます。凡そ2週間の旅を経て、イスラエルに到着し、1月6日にベツレヘムにいた御子イエスに贈り物を献げ礼拝した。この礼拝をもってクリスマスの締めくくりとされています。絵画や絵本等では、飼い葉おけに寝かされている御子イエスに対して礼拝をしている場面等が描かれていますが、1月6日まで飼い葉おけに寝かされていたとは思えません。恐らくベツレヘムにあった夫ヨセフの実家に向かったのではないかと思われます。

さて、ここで大切なことは、なぜこの出来事がクリスマスの締めくくりなのかというと、1月6日を公現日(こうげんび)とか顕現日(けんげんび)と呼びます。東の国の学者たちはユダヤ人ではなく異邦人です。その異邦人が御子イエスに対して礼拝した、その意味は、御子イエスが全世界の人々に対してその存在を示した時であったと考えられているからです。

私たちは三人の学者と考えていますが、聖書には必ずしも三人とは記されていません。ただ贈り物が黄金、乳香、没薬の三つだったので、三人と考えられてきました。古来伝説では一人は白人、一人は黄色人、一人は黒人とか、一人は若者、一人は壮年、一人は老人であったといったふうにも言われています。いずれにしても、この学者たちは、「その星を見て喜びにあふれ」ました。クリスマスは喜びにあふれる時です。私たちの人生に、私たちに命を与えて下さった神様が直接的に介入して下さった出来事だからです。その祝いの仕方は、国によって違います。日本のクリスマスの喜びは、キリスト教国のような喜び方とは違います。でも何より大事なことはどんな祝い方なのかよりも、「喜びにあふれる」ことです。どんな状況の中にあっても、家族と共に、親子と共に、神の恵みに感謝して、喜びにあふれて、笑顔で暮らすことです。そこに確かな平安があります。喜びと笑顔では喧嘩になりません。毎年一度のクリスマス、でも、2018年のクリスマスは一度しかありません。 一緒に喜んでこの時、過ごしていきましょう。

2018年 11月  

「わたしはまことのぶどうの木 、わたしの父は農夫である。」

                  ヨハネによる福音書15章1節

プロヴァンスの贈り物」という映画があります。観られた方もいるかもしれません。ロンドンでプロの金融トレーダーとして活躍していたマックスのもとに、南仏のプロヴァンスでぶどう園を営んでいた、ヘンリーおじさんが亡くなったという知らせが届きます。マックスはおじさんの財産を引き継ぐことになっていたのですが、引き継いだ後は全て売却するつもりでおじさんの家にやって来ます。けれど、子どもの頃に遊んだそのままの風景や、穏やかに過ごした時間の記憶が戻ってきたり、子どもの頃に憧れていたファニーが大人の女性となって登場したり、財産を売却するかどうかで思い悩むのです。

おじさんはぶどう畑を栽培していました。ぶどう畑は決して大きなものではありませんでしたが、マックスの幼馴染でデュフロと呼ばれるぶどう作りの職人が一生懸命にぶどうを栽培していました。二人は再会を喜び合いますが、財産を売却するかどうかで、一時、険悪な雰囲気になったりします。でも、次第にデュフロが超一流のぶどう作り職人であることがわかり、そのぶどう畑のワインは、「ブテック・ワイン」と呼ばれ、市場には出回らなく無名ですが、超高値で取引されるワインであることがわかったりもします。このあたりの話は本筋から少し離れてしまう話ですが、私は主人公マックスを演じるラッセル・クロウの顔立ちが、少しかっこ悪すぎる以外は大好きで、これまでDVDで10回以上は観たかもしれません。良かったら観て下さい。ご家族や夫婦で観るにはすごくお勧めです。

ところで「わたしの父は農夫である」と聖書にあります。英語やフランス語の聖書に記されている「農夫」は一般的な農夫ではなく「ぶどう畑を所有し、そのぶどう畑のぶどうからワインを醸造する農民」という意味がある特別な言葉が使用されています。ぶどうを作るだけの農夫でもなく、そのぶどうからワインまで生産します。その過程を他人に任せないのです。他人に任せたら、安いぶどうと混ぜられてしまうかもしれない。そのようなリスクを無くすために自分達が全て行うのです。だから特別なワインが出来上がり、自慢のワインとなります。

そのようなことを思いますと、「わたしの父は農夫である」と言われた主イエスの言葉がどんなにか意味深いものかと思います。父なる神は、私たちの一人一人を愛するあまり、自慢の独り子である御子イエスをこの世に誕生させて下さいました。そして主イエスを通して、神のどこまでも尽きることの無い「愛」を教えて下さいました。主イエスは御自分のことを「わたしはまことのぶどうの木」と告げました。父なる神が誰の手も借りずに、誰かに任せることもしないで、手塩にかけて育てて下さった、本物のぶどうの木です。そこからどんなに美味しく味わいのある御言葉と祝福と幸せが溢れ出てくることかと思います。主イエスは「わたしにつながっていなさい」とも話されました。私たちは、いつのまにかマックスのように、この世の価値観の中で、お金や財産や、この世の名誉や富を追い求めすぎて、それらとしっかりとつながってしまって、ついに何が本物なのかを忘れてしまってはいないでしょうか。もし、そうかもしれないと思われるなら、いつからでも、どんな状態からでも間に合います。まことのぶどうの木である主イエスとつながることです。本物とつながると、不思議なことに偽物や、混ざりものがよく分かったり、見えてきたりします。私たちは、農夫である父なる神と、主イエスの愛に包まれて、神としっかりとつながって、益々素敵な子育てをしていきたいものです。

2018年 10月

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」
                   コリントの信徒への手紙一 3章6節
「わたしは植え」と告げている人は、主イエスの福音を宣べ伝えたパウロという人です。
パウロに与えられた使命は、異邦人伝道でした。当時、ユダヤ教ユダヤ教徒以外の人々を異邦人と呼び、彼らは神様からの祝福を受けられず、自分達は祝福を受けられる民族であると考えていました。現代でも自分達こそ特別な民族と考えている人たちは、私たちの国を含めて、案外大勢います。それが良いプライドや誇りとなり、互いに尊重しあえると、とても良いと思いますが、プライドが高すぎると差別するようにもなります。主イエスは、ユダヤ教の中にあった差別的な考え方を否定し、ユダヤ人でも、異邦人でも、女性でも男性でも、子どもでも、あるいは病気とか、怪我によって動けない人でも、どんな人も「神様の子ども」と教えられましたが、パウロもそのようなイエス様の教えを受け継ぎました。

パウロは、ユダヤ人もギリシャ人も、民族の差別なく、主イエスの喜びの御言葉を、世界中に宣べ伝えなければならないと感じ、生涯の中で三度の福音伝道旅行を行い、世界各地に出向き、世界共通語であったギリシャ語を駆使し、大活躍して、しかし命がけで、イエス様の福音を宣べ伝えました。この働きがないとしたら、今のキリスト教はなかったかもしれないと言われるほどの実行力でした。最後はローマで、恐らく皇帝ネロの時代に殉教するまで、主イエスを宣べ伝えて生きた人でした。

一方アポロも、主イエスの福音を宣べ伝える働きを熱心に行っていました。特にアポロは話が上手で、人々に感動を与え、多く人々がアポロによってクリスチャンになったと思われます。

ギリシャのコリントという町で、パウロが三年間苦労して伝道活動を行い、やっとの思いで教会を立ち上げ、最初の牧師となりますが、二代目の牧師としてアポロがやって来ました。アポロは話が上手でしたからコリントの人々は喜びました。けれど同時に教会内で、パウロ派と、アポロ派のような派閥争いが起こってしまったようです。その様子を聞いたパウロは、コリントの教会に手紙を書いて「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と記しました。大切なのはパウロでもなく、アポロでもなく、神様を信じること、それが大切だと告げたわけです。

「私は植え」とか「水を注ぐ」ということは、いわば外的な要因です。パウロは、話は上手ではなかったと言われますが、知識もあり文章も上手でした。ですから聖書に沢山パウロの手紙が残されることになりました。アポロは話が上手で人を引き付ける能力があったと思いますが、それによって教会の人々を一つにするのではなく、逆に派閥争いのようになったのは、「自分が、自分が」という思いが強く、例えるなら神様よりも、自分を主張したかったのかもしれません。だから、パウロは植える人もいるし、水を注ぐ人もいるし、でもその全てを含めて、最終的に成長させて下さるのは神様だと告げているのです。

この御言葉は、私たちに謙遜を教えています。能力がある人ほど自分を出したいと思うし、他人の能力の低さにイラつくかもしれません。幼子を育てる時に、自分と同じことが出来ないと怒る親がいるでしょうか。怒らず、むしろ励まし、忍耐することが大切だと思うでしょう。そのように、人は外的な要因をどんなに整えたとしても、本当に成長するのは、その本人の内側から出てくるもので成長するのだと思います。ですから私たちもまた、植えること、水を注ぐことは熱心に、けれど成長させて下さるのは神様であるということを受け入れて、互いに自己主張せず、愛をもって生きていきたいものだと思うのです。

2018年 9月

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」
               ルカによる福音書19章6節
 
 ザアカイという人がいました。この人は徴税人の頭でした。徴税人とは読んで字のごとく、人々から税金を集める人のことを言います。ただ聖書に登場する徴税人は、税金を集めて、自分達のユダヤの国ではなく、支配国ローマへ税金を収める仕事をしていたわけです。ローマは税金を集めるために、自分達が直接ではなくユダヤ人を使っていたわけです。ですから、ローマの手先とも見なされて、仲間のユダヤ人から嫌われていました。しかも財政的には、その仕事によって一般の人々よりずっと豊かな生活をしていたようです。つまり、尚の事、人々から嫌われていました。その頭ですから、ザアカイは最も嫌われていた一人と言っても良いでしょう。

 そんなザアカイが住んでいたエリコの町に、イエス様と弟子たちがやって来ました。人々は喜んで出迎え、イエス様を囲むようにして道に添って人々が集まって来ました。ザアカイもイエス様を一目見たいと思い道に飛び出したのですが、ザアカイは背が低かったうえに群衆が多く、さっぱりイエス様を見ることが出来ません。もし友達がいれば、「ザアカイ、さあ前に来て」という声もあったかもしれませんが、逆に人々はザアカイに意地悪をして、前に出さないようにブロックしていたのかもしれません。

 でも、ザアカイはそんなことでへこたれず、近くにあった桑の木に登りました。そして高いところでイエス様を見ることが出来たのです。ところがイエス様の方からザアカイに声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いた人々は驚きました。ザアカイも驚きましたが、とっても喜びました。木から降りて、自分の家にイエス様を案内して、一緒に食事をしながら楽しいひと時を過ごしたと思います。そんな楽しさの中でザアカイは立ち上がって「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告げたのです。その言葉を聞いたイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と話し、とても喜びました。

 さて、ザアカイのザは、「財産」のザです。人は財産やお金があれば幸せだと思いますか?勿論、美味しい食事も食べられ、好きなことも出来るので幸せでしょう。でも、財産で友達は出来ません。ザアカイは友達がいませんでしたから、きっと寂しい人生を生きていたのではないでしょうか。

 ザアカイのアは「愛」のアです。そんなザアカイの所に、主イエスが愛をもって接して下さいました。これまで誰もそのように接してくれなかったのに、イエス様だけがそうして下さいました。愛こそが人を変える大きな力だと思います。

 ザアカイのカは、「感謝」のカです。ザアカイは主イエスとの愛のある交わりの中で喜び、感謝して、ついに自分の財産よりも大切なものを手に入れました。感謝出来る気持ち、どんなにか大切だと思います。

 ザアカイのイは「生きているっていいなぁ」です。ザアカイはこれまでどんなに頑張っても手に入れることの出来なかった、愛と感謝を体験し、そのような時を過ごし人生の充実とはこういうことかと思ったのではないでしょうか。私たちも主イエスとの出会いによって「生きているっていいなぁ」という気持ちを手に入れて過ごしていきたいものです。

 皆さんの9月も神様の祝福を祈っています。

2018年 7月

「主よ…わたしたちにも祈りを教えてください」 
          ルカによる福音書11章1節

 私の生まれ育ちは、既に、多くの皆さんがご存知ですが岩手県です。田舎町の貧しい家に生まれ、育ちました。私の祈りの原風景は、毎朝、仏壇や神棚に対して祈りをささげている母の姿です。毎日の生活に感謝していた姿を思いますし、芸術家の父親も夜になると写経をして、沢山の経を奉納していました。実際の所、とても、仏教的、日本的な環境に生まれ育ちました。とはいえ、恐らく我が家だけがそうだったというわけでもなく、太平洋戦争後でも、昭和30年代頃までの多くの日本家庭が、仏壇や神棚に手を合わせて、祈ることを行っていたのではないかと思います。

 それ以降、日本は高度経済成長時代と呼ばれる社会となり、経済的には右肩上がりの社会を迎え、進歩、発展を遂げて来ました。バブルの崩壊等苦しい時代もありましたが、それでも日本の生活水準の高さは世界有数と言えるでしょう。しかしまた、一方においては、戦争を起こし敗戦を経験したことの影響もあると思いますが、日本は、特に宗教という考え方に距離を置き始めました。医学や化学技術の進歩が、更にそれに拍車をかけていると思います。そして、現代にいたっては「神に祈る」思いから大分遠くなっているのではないかと思うのです。

 話は変わりますが、天に召されて20年となりましたが、キリスト教作家で三浦綾子さんという方がいます。三浦綾子さんの本に「心のある家」というタイトルの、エッセーがあります。祈りについて記してあります。ある日のこと、ご主人の光世さんの元同僚3人が三浦さん宅を訪ねて来たそうです。その時、光世さんが食前の祈りを捧げたそうです。祈りが終わって目を開けたら、三人が3人とも、涙を流しておられたとありました。光世さんの祈りに感動したからでした。綾子さんは、当初彼らがなぜ泣いていたのか分からなかったそうです。光世さんは「今日も貴重な命を与えられたことへの感謝」、「その命を養う食べ物を与えられることへの感謝」、「それらを造り給う神への感謝」、「客人に対する健康と平安」を祈ったに過ぎないのに、とありました。けれど、同時に、祈りに対して、例えば食事の祈りだけで、年に1,500回以上の祈りとなるので、あまりにも慣れてしまっていて、いつもの事となっていたのではないかとも記してありました。

 現代の私たちが祈りの大切さを忘れているのはちょっと寂しく、残念だなと思います。自分たちは祈りなどしなくとも、生きていけるとどこかで思っているからです。先日、一人の二十歳前の青年が「先生と話をしたい」と言ってやって来ました。たまにやって来ては、私にはわからないゲームの話を沢山して帰っていきます。生き生きと話をしてくれます。それから礼拝堂に一人で行って一人で祈っています。本当は苦しい胸の内を沢山持っている青年です。その姿はとても真剣で、見守る私の方が感動していました。 

 最近、改めて母や父の祈る姿を思い起こします。祈りは「幼子のような心」が求められているとも言われます。私たちはいつのまにか「幼子のような心」から大分遠いところで生きているのかもしれませんし、誰かに、あるいは何かに「感謝する」思いからも遠くなっているのかもしれません。感謝が無くなると、不満や不安、そして、怒りが心を占領します。そしてさらに祈りから遠ざかるのかもしれません。
だから、皆さん、一緒に祈って行きましょう。祈り方が分からないと思う方も教会へどうぞ。

2018年 6月

「空の鳥をよくみなさい。…あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
                     マタイによる福音書6章26節

 今月の聖書箇所は恐らく聖書の中でも最も知られている箇所の一つです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」とあります。

 ここでイエス様が何を言おうとしているのかは明らかで、「思い悩まないこと」です。

 私たちは何に「思い悩んで」いるでしょうか。一つは、私たちは消費社会文化の中で生活しています。テレビのコマーシャルは、何度も繰り返しながら、「この品物を購入すればあなたは幸せになれる」と訴えかけているようなものです。ですからその甘い言葉に乗って、様々な物を購入しては一瞬の幸せを感じるのですが、しかし更に新しい何かが欲しくなり、また購入するといった繰り返しをしているようなものです。わかっていてもやめられない状態です。

 トルストイという小説家が「人にはたくさんの土地がいるか」という童話を記しました。ある農家が自分の土地が欲しくて、頑張って貯蓄してわずかな土地を購入しました。そこで作物を作り、売って少しの収入を得て幸せでした。けれど、いつのころからか、もっと広い土地が欲しいと思い、更に頑張って働き、もっと広い土地を購入しました。とても幸せでした。家族も大満足です。でもその農家は、もっと広い土地があればもっと幸せになれるとばかりに、二度も、三度も土地を購入するうちに、とても良い話を聞きました。少し遠くだけれど、とても安くて広い土地があるというのです。喜んで詳しい話を聞くと、「日の出から日没の時間内に歩いた分の土地はあなたの土地」と説明されるのです。主人は大喜びで準備して日の出から歩き出しました。相当歩いて横に曲がり、お昼を取り、更に歩き、もうギリギリかなというところまで歩いて曲がって、出発点を目指しました。けれど、欲張りすぎたのか日没まで本当に時間がありません。主人は一生懸命に走って戻りました。そして、あと少しというところまできて力尽き、倒れて死んでしまったというのです。ゴールで待っていた人々は、主人の遺体を埋葬するために、体に合わせて地面を掘り、つまり二メートルほどの幅と深さで十分でした。という言葉で終わるのです。皆さんも、子どもの頃に読んだことがあると思います。
改めて人の欲とは限りないものだと思います。

 とはいえ、イエス様は現代の消費文化社会に対してだけ「思い悩むな」と告げているわけではないでしょう。何よりも私たちは「人間関係」で悩みます。家族のこと、夫のこと、妻のこと、子どものこと、仕事のこと、いつも、ずっと悩んでいるかのようです。

 なぜ悩むのでしょうか。「今の、この状態が良くない」と思っているからです。「今の、この状態が満足ではない」からです。私たちはだから頑張れるという一面もあります。良い状態にしようと頑張るのです。では、いつのどの状態が満足なのでしょうか。恐らく人間関係にしても「満足」と想像していた状態になったとしても、その時には「この状態は満足ではない」と思うのではないでしょうか。

 だから大切なことは、今、この時を「満足して生きる」ところに幸いがあるように思います。幸せは自分のすぐそばにあります。そして思っているよりずっと簡単に自分のものになるのです。その秘訣は「思い悩まない」ということなのだと思うのです。