「地は主の慈しみに満ちている」(詩編33:5)
20年以上前だったと思いますが、夫の転勤で、高尾に数年住んでいたことがありました。高尾にはすぐ近くに桜の名所があり、何度か行き、桜の花を楽しんだことがあります。
私が知っている桜は、ソメイヨシノ、八重桜、山桜、河津桜等、ほんの数種類ですが、桜の種類は、何と600種類はあると言う事です。満開の桜は、もちろん美しく、「願わくば花のもとにて春死なむ」とは平安時代から鎌倉時代初期の歌人の歌であります。「花」と言うとき、それは「桜の花」を指しているのです。この満開の想像を絶する、光輝く桜の美しさに出会ったならば満足、もう、何も思い残すことは無い、と言う思いであったかと想像したりしています。歌人の気持ちに寄り添うことのできる歌の一つであるように思うのです。
桜の開花は、その年によって異なりますが、大体、入園、入学、入社、転勤等、「さあ新たな出発」「これから始まるのだ」「これからが勝負時」と言う時などに、それらを後押しし、励まし、喜び、祝福しているかのように咲き出すのです。
これから、と言う出発、旅たちの人たちには嬉しい桜であります。春は自然界の生きとし、生けるもの、皆、始動し、芽を吹き、その命の息吹をまざまざとわたしたちに見せつけています。地が活動していることを感じる季節なのです。まことにそれは麗しい光景でもあり、命の躍動を感じる時でもあります。「地は主の慈しみに満ちているのです」。主の命に溢れ、神の祝福が降り注いでいる、輝く季節なのです。
復活の命に溢れ、人々も、植物も、空の小鳥たちも、野の花も、命の与え主である神に感謝し、歌い出しているかのようです。
がんばれ!がんばれ!と応援していてくれているのです。自身の精一杯で良いのです。自身の命を輝かして、前向きに、歩を進めてみようかと思える季節であります。もう少しやれるかもしれない、と諦め掛けていたあのことへも、このことへも、少し心が傾きかける。そのような自分のかすかな心の動きに、微笑んだりする季節でもあるのです。
しかし、桜はいつか散り行きます。私は散り行く桜が、大変好きなのです。桜の持っている使命を果たし、風に舞いながら、実に、神の愛と光のように、上空からさんさんと降り注ぎ、散りゆく定めに、潔いその姿は、淡い色の花びらの喜怒哀楽を思わせる群舞のようでもあります。
その花びらの舞に包まれて、それを全身で浴びて歩くとき、「主の慈しみに満ちている地」を感じるのです。神の深い恵みを感じるのです。主の慈しみに覆われているこの身の幸いに感謝している自分がいるのです。
さあ、子どもたちにも、そしてどのような年代の人にも、新たな出発の時、始まりのチャンスの時の4月です。心に、神からいただいている愛の帯をしっかりと締めて、祈りつつ、歌いつつ、恵みと慈しみに満ち満ちている主に向かって、共に歩いて参りましょう!!主の祝福を祈ります。